【76番札所金倉寺】「智証大師円珍」生誕の地は乃木将軍の宿舎にも使われたお寺

76番札所金倉寺は、天台寺門宗の開祖「智証大師円珍」生誕の地といわれています。幕末から明治期に活躍した軍人「乃木希典」が、香川県の陸軍師団に赴任した際に宿舎としても使われていたお寺です。

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善通寺市街を通って約4kmの田園地帯のお寺へ

お大師さま生誕の地である75番札所善通寺参拝後、東院の東側にある赤門をくぐって、「赤門筋」を東に進んでいきます。
しばらく進むと、JR土讃線の線路があり、JR善通寺駅の近くから北方向に進路を変えると、このあたりの地域には田園住宅地が広がっていて、のどかな遍路道を歩きます。

この地域には、安価に宿泊ができて、宿泊者同士のコミュニケーションも楽しむことできる「ゲストハウス」があるので、宿泊場所の候補として検討するのもよいと思います。

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善通寺から約4kmほど進むと、次の77番札所金倉寺に到着です。

金倉寺 山門

田園地帯にある77番札所「金倉寺」に到着です。

 

「智証大師円珍」生誕の地

77番札所「金倉寺」の縁起によると、奈良時代の宝亀5年(774年)にこの地の豪族であった和気道善(わけどうぜん)が「道善寺(どうぜんじ)」として創建したそうです。
和気家は空海の出身家である佐伯家の一門で親戚筋にあたります。
その後、この地に生まれた和気道善の孫(空海の姪の子)である円珍(えんちん)が、唐での修行後、唐の青龍寺にならって伽藍を建造、薬師如来を御本尊とし、延長6年(928年)に醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんで現在の「金蔵寺」の名になったとのことです。

円珍は、幼いころから地域ではたいへん賢い子として有名で、2歳のときにはひとりで遊んでいる幼い体からなんとも言えない後光が射しているのを付近の人々が見たという伝説も残っています。
唐での修行などを経て、天台宗の高僧となり、のちに天台寺門宗を開祖し、智証大師(ちしょうだいし)の大師号も与えられています。

金倉寺 智証大師円珍 入山大師像

境内には智証大師の「入山大師像」が安置されていました。

金倉寺 大師堂

お寺の宗派は「天台寺門宗」、大師堂も「智証大師」が中央にまつられていて、四国霊場ではここが唯一の珍しいパターンです。

 

明治時代に「乃木将軍」の宿舎にも使われたお寺

金倉寺のエピソードで、明治時代の「乃木将軍」の宿舎に使われていたことが有名です。

乃木将軍とは、本名「乃木 希典(のぎ まれすけ)」、幕末から明治時代にかけて活躍した軍人で、特に日露戦争での武功は世界的に評価されており、学習院院長を務めていた際には「迪宮裕仁(みちのみやひろひと)様」(のちの昭和天皇)の養育を担当したことでも名を知られています。

その乃木将軍が、1898年(明治31年)に善通寺に新設された第11師団長と赴任した際に宿舎として使われていたのが金倉寺なのだそうです。
当時の善通寺第11師団は四国4県の徴兵・訓練の拠点で、ここから多くの兵士が日露戦争に出兵したそうで、現在も広大な敷地を有する「陸上自衛隊善通寺駐屯地」」としてその名残が残っています。

現在の金倉寺の客殿には、乃木将軍の遺品が数多く保管・展示されているほか、境内の本堂横には、乃木将軍が東京から訪ねてきた妻との面会を拒み、妻がその下で思いにふけってしまったという「乃木将軍妻返しの松」も残されています。

金倉寺 乃木将軍妻返しの松

乃木将軍がわざわざ東京から訪ねてきた妻となぜ面会しなかったのかはわからないそうです。

金倉寺 本堂

1983年に再建された本堂は、広々とした境内にどっしりと構えていました。

 

76番札所「金倉寺」では、「智証大師円珍」と「乃木希典」の2人の偉人のエピソードも知った上で参拝したいお寺です。

 

【76番札所】  鶏足山 宝幢院 金倉寺(けいそくざん ほうどういん こんぞうじ)
宗派: 天台寺門宗
本尊: 薬師如来
真言: おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
開基: 和気道善
住所: 香川県善通寺市金蔵寺町1160
電話: 0877-62-0845

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この記事を書いた人

お遍路さん初心者です。  2015年1月20日(火)に1番札所を出発し、2015年3月1日(日)に41日間で88番札所で通し歩き結願を果たすことができました。 2015年4月12・13日の2日間で、開創1200年で盛り上がる高野山にお礼参りにも行ってきました。 自身の通し歩き遍路体験を元にお役立ち情報を発信しています。