愛媛県八幡浜市は、四国八十八ヶ所霊場巡礼では札所が無いため、通常は立ち寄らない地域ですが、かつて?ある一時期?に37番札所を名乗っていた「大黒山吉蔵寺」があります。
四国西の玄関口・八幡浜港。港には大分県を結ぶフェリーが随時発着しており、九州各地からこの場所に上陸して四国八十八ヶ所参りを始めるお遍路さんは多い。
—– こちらの記事に登場する主な地名・単語
八幡浜(やわたはま)
大黒山吉蔵寺(だいこくざんきちぞうじ)
神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)
娘巡礼記(むすめじゅんれいき)
—– こちらの記事に登場する人物
五代目大黒屋吉兵衛(ごだいめだいこくやきちべえ)… 八幡浜の豪商家の一つ。明治18年(1885)、三代目・吉蔵の名を取って大黒山吉蔵寺を創建した。
高群逸枝(たかむれいつえ / 1894~1964)… 詩人、女性運動家。24歳の時に九州日日新聞(現・熊本日日新聞)に連載された「娘巡礼記」は、当時の四国遍路の様子がわかる、貴重な作品。
大黒山吉蔵寺
吉蔵寺は、現在は曹洞宗永平寺派に属する寺院で、明治18年(1885)の建立。
八幡浜の干拓事業を行っていた名家の一つ・五代目大黒屋野本家当主が、自身が干拓した土地に寺院を建立。
山号は屋号の大黒屋から、寺号を三代目当主の名・吉蔵から取り、大黒山吉蔵寺とした。
37番札所が八幡浜に?
創建当初のお話。
ある夜に住職が鐘の音を耳にした。翌朝確認すると、仏間に四国八十八ヶ所の納札が37枚置かれていた。その数字に関わりのある事柄を調べてみると、第37番札所が神仏判然令の影響を受け衰退していた。そこで本尊と納経版木を3,500円で買い取る話をつけ、当山を37番札所とした。
以後数十年間は四国八十八ヶ所の一つとして認知され、場所柄九州から上陸する遍路の拠点として相当賑わったという。
ここが札所の一つとして認知されていた話として、大正時代に熊本から四国遍路を回った高群逸枝 "娘巡礼記" に、
「この寺は四国三十七番の札所である。でもこのことは世人に多く知られていない。即ち三十七番は高知県の窪川にある藤井山岩本寺て…いかにもこれが大師の旧蹟には違いない。でも古来の本尊や御納経の版は吉蔵寺に伝わっている。そこで四国には三十七番が両立している形になっている…」
このように記されている。
現在の37番札所岩本寺の復興が明治22年(1889)、高群逸枝の四国遍路は大正9年(1920)のこと。復興した岩本寺からは本尊と納経印の返還要求が出され、裁判の結果岩本寺側が勝訴となったので現在の形になった(元の形に戻った)ということだが、それがいつの時期なのか、詳しいことは不明である。
吉蔵寺の境内を回ってみると…
境内には宿坊とされる大きな建物がある。
高群逸枝を始め、九州から四国に上陸したお遍路さんの多くが宿泊したという宿坊だが、現在は宿泊業務を行っていない。
境内の隅には大師堂がある。
創建当初から曹洞宗の寺院なのに、弘法大師が祀られているのは珍しい。元札所の名残かもしれません。
大師堂前の蝋燭台には火が灯り、
線香が立てられていました。
大師信仰か、地域信仰か。お四国まいりに関係あるものか、蝋燭や線香を見ただけではわかりませんが、今でも確かに地域に必要とされ、参拝に訪れる方がいらっしゃる証です。
大師堂前にある石碑
建立が明治33年(1900)とあるので、当山が37番札所を名乗っていた時期にあたります。これを立てた方が目にした当時の四国遍路界は どのようなものだったのでしょうか。
長い歴史を誇る四国八十八ヶ所霊場は、様々な歴史を秘めています。
【寺名】 | 大黒山 吉蔵寺(だいこくざん きちぞうじ ) |
宗派: | 曹洞宗永平寺派 |
本尊: | 来迎阿弥陀如来 |
真言: | おん あみりた ていせい から うん |
開基: | 五代目大黒屋吉兵衛(野本定固) |
住所: | 愛媛県八幡浜市旭町 |