高松市中心街、周囲を高層建造物に囲まれた中に美しい釈迦如来像が立っている「法泉寺」があります。旧来からの城下町であるこの場所には様々な歴史が秘められています。
龍松山法泉寺
高松市中心部、高松市役所の北側に龍松山法泉寺(りゅうしょうざんほうせんじ)という寺院があります。寺院西側道路に面した場所が境内への入口です。
初代藩主・生駒親正(いこまちかまさ/1526-1603)
第二代藩主・生駒一正(いこまかずまさ/1555-1610)
第三代藩主・生駒正俊(いこままさとし/1586-1621)
天正16年(1588)…生駒親正が宇多津(現綾歌郡宇多津町)に海蔵寺の名で建立
慶長3年(1598)…生駒正俊によって当地に移転
※現在地と寺域が若干異なる
江戸時代の松平家以前に高松を治めた生駒家と縁が深い寺院で、現在の寺号は生駒正俊の戒名に由来。生駒一正・生駒正俊の墓所がこちら法泉寺境内にあります。
※生駒親正公の墓所については以下リンクの記事でご紹介しています。
法泉寺のおしゃかさん
現在の寺院入口に山門はなく、西側の入口から短い参道を進んだ先に釈迦如来立像が立っています。
今でこそ周囲にはおしゃかさまより高い高層建造物だらけですが、建造当時は街のどこからでも眺めることができたそうです。
明治40年(1907)12月には、東京に目黒競馬場が開設されています。同競馬場では昭和7年(1932)4月に第一回東京優駿大競走(日本ダービー)が開催されるなど日本競馬の黎明期を支えました。
法泉寺の釈迦如来立像は日清・日露戦争で失われた香川県出身の軍関係者約2,000人の菩提を弔うため、遺族らによって建てられたもの。明治27年(1894)7月に勃発した日清戦争で日本は勝利したものの、明治維新以降初めてとなる大規模対外戦を経験して、様々な不備が露呈することになります。その一つとして軍馬の重要性を痛感することになり、競走によってより優秀な軍馬を選定するために日清戦争後に本腰を入れて近代競馬が始められた経緯があります。
その当時の東アジアを取り巻く情勢から、次なる戦闘(=対ロシア)は避けられるものではなく、軍備が急がれ各地に師団が創設されていく中で、香川県に新設されたのが善通寺町(現善通寺市)を本拠地とする「第十一師団」。初代師団長に乃木希典(のぎまれすけ/1849-1912)が配されているあたり、相当力が入っていたものと想像します。実際ここで厳しい訓練を受けた乃木将軍の"教え子たち"が日露戦争では前線で活躍。辛くも勝利と名声を得ることができました。
しかしながらそれは大激戦の末によるものだったため、多数の尊い命が失われました。特に作戦の中核を担った香川県出身兵の死亡率は高かったようです。それら明治の二大戦争によって失われた英霊を弔う為にこの地に建てられたのが、法泉寺釈迦如来像です。
法泉寺に置かれていた香川郡役所
法泉寺は明治期に香川山田郡役所(かがわやまだぐんやくしょ)が置かれていた時代があります。
香川郡
明治14年(1881)…香川山田郡役所 ※当時は愛媛県の管轄
明治23年(1890)2月…高松市発足により、高松市となった地域が郡より離脱
明治32年(1899)4月…郡制施行により郡役所移転
大正15年(1926)6月…郡役所廃止
現在は島嶼部の直島町が唯一香川郡を名乗っていますが、元々は県庁所在地に選ばれた高松が香川郡に属していたことでそれが県名に採用された経緯があります。
旧山田郡は現在の高松市東部に相当する地域で、84番札所屋島寺(やしまじ)がある屋島エリアから南に伸びる地域(高松自動車道・高松中央インターチェンジ付近等)が同郡の領域にあたります。明治32年(1899)4月に三木郡との統合により現在の郡名である木田郡になりました。
法泉寺に郡役所が置かれていた時代の最初期は愛媛県の管轄だったため、現在の香川県に相当する地域には県庁もなければ市制施行前なので市役所も存在しません。高松の自治を行う拠点が法泉寺に置かれていたわけですが、そういう意味では現在おしゃかさまの後ろに見えている高松市役所はその後継といえます。
※法泉寺の歴史に関しては、以下リンクの記事に続きます。
【「法泉寺」 地図】