戦国時代後半から江戸時代前期にかけて讃岐國を治め、高松・丸亀両城下町の祖を築いた「生駒氏」。その初代藩主である親正公の墓所が高松市市街地の「弘憲寺」の境内に残されています。
生駒親正
生駒親正(いこまちかまさ)は、美濃國可児郡土田(みののくにかにぐんどた、現岐阜県可児市)生まれ。
織田信長に臣従した後、羽柴秀吉の家臣となり活躍。着々と知行を増やしていき讃岐國17万8000石を与えられる。秀吉の死後も豊臣政権の重鎮として君臨していたが、慶長5年(1600)に勃発した関ヶ原の戦いでは西軍に付いていたため合戦後に処遇が問われることになる。しかしながら息子の生駒一正(いこまかずまさ/1555-1610)が東軍についていた経緯から処分を免れ、高野山での出家を経て讃岐國に戻り慶長8年(1603)に高松城で亡くなった。その墓所が香川県高松市の弘憲寺(こうけんじ)にあります。
※一石(いっこく)≒米144kg。明治以前に所領地の大小を表す単位として用いられたのが石高制(こくだかせい)。面積ではなく領地内でどれだけ米が獲れるかを重要視した。
※弘憲寺の見所に関しては、以下リンクの本記事前編でご紹介しています。
親正公の墓所がある場所
その墓所は弘憲寺本堂の裏手にあります。本堂向かって左側の勝手口から墓地へ向かいます。
本堂裏にやってきました。墓地区画の塀の向こうに鉄道の架線柱が見えていますが、こちらはJR予讃線。右の方向それほど遠くない場所に四国の鉄道の起点・高松駅があります。
本堂裏を訪れると、親正公夫妻の墓所は見てすぐそれとわかります。
高松・丸亀両城下町の祖
天正16年(1588)。讃岐國にやってきた生駒親正は高松城、次いで丸亀城を築城。城下町の形成に着手しました。「高松」は生駒氏以前から城があった屋島南麓の地名(現高松市高松町)に由来します。
関ヶ原の戦いに際して父・親正は西軍、子・一正は東軍に付くことになりますが、これはどちらが敗れても家を存続することができる策だったともいわれます。似た出来事に真田親子が東軍西軍にわかれて家の存続を図った通称「犬伏の別れ」という出来事がありますが、この時代はそのような決断を迫られていた大名は多かったのかもしれません。
生駒家は子の一正公が東軍に付いて武功を挙げていたことにより罪を問われることなく、親正が家督を譲って高野山に出家することで家を存続することができました。晩年には高松に戻ることが許され、慣れ親しんだ高松でその生涯を終えています。
親正夫妻の墓所は高松藩二代藩主である生駒一正が両親を弔う為に建立したものと伝わります。
高松・丸亀両城下町造営という讃岐國の近代化に大きく寄与した生駒家ですが、4代目高俊の時代にお家騒動の発生により領地を没収されてしまいます。
生駒氏が去った高松には徳川家康の孫である松平頼重(まつだいらよりしげ/1622-1695)が入封。丸亀には時の世情に合わせて隠れキリシタン対策として肥後天草から山崎家治(やまざきいえはる/1594-1648)が招かれました。そのような経緯があってどちらの城下町にも生駒氏の時代を偲ぶものはあまり残っていません。弘憲寺の街区は昭和20年(1945)7月の高松空襲によって壊滅的な被害を受けたため、なおさら古いものが残っていません。
そのような状況下にあって、建立当時の姿を留める生駒親正夫妻の墓石は貴重な存在となっています。
【「弘憲寺」 地図】