土佐國最大の遍路ころがしとされる急な登り坂をのぼってたどりつく27番札所神峯寺。標高450mに位置する神峯寺方向へ、山の麓で分岐する位置に中務茂兵衛標石が残されています。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石が立っている場所
27番札所神峯寺の山の麓、お寺に向かって曲がる地点。順打ちで26番札所金剛頂寺からは上の写真だと東(右)の方角からやってきて北(山があるほう)へ曲がります。こちらの交差点自体が再整備されたようで、敷地が広く取られていて完成に合わせて標石が移設されたものと思われます。
標石全体を入念に写真に収めていったのですが、この場所はわりと自動車が通ります。標石の観察もですが付近の通行自体に注意が必要であるように感じました。
標石の正面に表記されている内容
<正面上部>
右(袖付き指差し)
神峰道
神峰道→27番札所神峯寺(へ向かう道)
寺名に峰が付く寺院では「峰」「峯」の字が「山へん」「山かんむり」と混在する傾向があります。神峯寺に関しては現在後者の「峯」の字が公式表記のようですが、標石建立当時は常用漢字や公式表記の概念があまり存在しなかったことが考えられるため、致し方無いことのように思います。
茂兵衛さんの住所を記す面に「大島郡」「大嶋郡」の両方が見られることと同様の理由です。
それよりも当標石の特筆事項といえるのは「神峰道」の表記。単純に「神峯寺へ向かう道なんだな」で正解なのですが、ここでは「寺」がついていない点に神峯寺の歴史が秘められています。裏面の建立年月の表記の箇所で詳しく掘り下げたいと思います。
<正面下部>
古れより
三十五丁
阿ま里
(これより35丁あまり)
この場所で指差し・道路標識が指す方向へ曲がると道は神峯寺へ続いて行きます。海岸に近いこの場所ですが、この時点ではまだ登坂は始まりません。右に曲がって進むと土佐くろしお鉄道ごめんなはり線の高架をくぐりますがその少し先から登り坂が始まります。
35丁≒3815m
なので神峯寺までを距離だけで考察するとたいへんな印象は受けないのですが、そこは「土佐國最大の遍路ころがし」侮ることなかれ。本道(=国道など)から分岐すると寺に着くまで商店はありませんし、自販機すら1つ有ったか無かったか(最新の情報は未確認です)。
それに加えて標高450mに向かって上へ行けば行くほど急な登り。この場所ではまだ登り坂は始まらないと申しましたが、実質的にここが神峯寺への登山口と考えて良さそうです。
標石の右面に表記されている内容
標石右面には施主の情報が記載されていて「どこのだれが」「そんな遠来な土地から」「当時の都道府県や市区町村の概念」などが分かりとっても面白いです。
ですがこちらの標石は劣化が激しいことと、右が北面になり日中は太陽の陰になり見にくい&写真が逆光になり、解析には最も難易度が高い面でした。わかる範囲で触れたいと思います。
<右面上部>
施主
大阪府松屋町
丹波國竹野町
大阪府松屋町→現・大阪市中央区松屋町(おおさかしちゅうおうくまつやまち)
読みは「まつやまち」ですが「まっちゃまち」の通称で呼ばれることが多い、古くから人形問屋が立ち並んでいることで知られる大阪市中心部の街区です。
ここでは「市」でなくて「府」? という疑問がわきますが、
明治22年(1889)4月…市制施行により大阪市南区
明治30年(1897)4月…市区域拡大
・
平成元年(1989)2月…東区との合併により中央区
標石の建立が明治25年(1892)6月なので、
・大阪市にはなっていたが、市制自体の認知度がまだまだ低かった
・松屋町が明治22年の初代大阪市南区に入っていなかった
このどちらでしょうか。おそらく前者のような気がします。
※大坂府杦屋町瓦町と解析されている人がいて正解はそちらかもしれません。その場所であれば現・大阪市中央区瓦町になります。
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丹波國竹野町→現・京都府京丹波町(きょうとふきょうたんばちょう)
もしくは、
丹後國竹野町→現・京都府京丹後市(きょうとふきょうたんごし)
※町ではなく「郡」かもしれませんが同エリアです。
近畿地方北部には「竹野」の地名が多く見られ、兵庫県北部にも北前船が寄港していたことで有名な竹野浜があります。そちらは旧國名で言えば「但馬國(たじまのくに)」になるのでさすがにここでは違いますが、上記どちらかの街で暮らす施主によるものと思われます。
京丹波町と京丹後市
字は非常に似てますが場所が全く異なります。
京丹波町…京都府中央部で、大阪府・兵庫県と三府県県境が接する辺り
京丹後市…京都府北部で、近畿地方最北に位置する丹後半島の大部分を市域に持つ
いずれも平成の大合併によって誕生した市町村ですが、地域ブランド名である「京」「丹波」などを名乗っている点が特徴。当エリア特産品の「丹波黒豆」は、秋になるとそれを求めて道路渋滞が発生するほどのブランド力を持っています。
旧丹波國は現在の兵庫県と京都府にまたがるエリアですが、最大都市である篠山(ささやま)は京都府に丹波を名乗る自治体や篠山市の隣に「丹波市」を名乗る自治体が誕生したことにより丹波エリアの中における篠山の知名度低下が危惧されることから、令和元年(2019)5月1日、すなわち新元号の令和改元当日に「丹波篠山市」に市名を改めた経緯があります。
京丹波町→京都府
南丹市→京都府
丹波篠山市→兵庫県
丹波市→兵庫県
※丹波町は合併して京丹波町になり存在しない
京丹後市→京都府
※丹後町は合併して京丹後市になり存在しない
これまで解析してきた中務茂兵衛標石には丹波國在住の施主のものが多数登場します。茂兵衛さんの時代は丹波地域で養蚕が盛んに行われ、近畿地方最大の絹糸生産地として賑わっていたでしょうから、そこで暮らす人々の心の中には四国遍路に関心を寄せる素地と余裕があったのではないでしょうか。
<右面下部>
●●●●兵衛
●大師●●●
住所の下にいくつかの文字があり人名へと続いていきますが、逆光であることや石の状態により全面の中でこの部分の判別が最も困難でした。
高知県に残されている中務茂兵衛標石は数が少なく、存在していても白化していたり刻字が薄くなっていたりして解析が難しく標石めぐりの難易度は高めです。
標石の左面に表記されている内容
茂兵衛さんの巡拝回数を表す左面は光の当たり方が良く刻字もわかりやすくなっています。
<左面上部>
左
高知
27番札所神峯寺への遍路道は行って同じ道を帰ってくる打戻です。この地点に関してはそのような特殊事情がありますが、
遍路道≠お遍路さん専用の道
ではないため、生活道路としての利便性を持たせる意味で本道に立つこちらの石には後年に高知県最大の都市である高知市方面への追記が成されたたように思います。フォントが異なる点からそのように考察しました。
この標石の観察を行っている最中は、自動車が全く通らない時間はあまりなく、海側に国道56号の新道がある今でも生活道として機能している印象を受けました。
<左面下部>
一百廿五度目為供養建之
周防國大島郡椋野村在住
施主 中務茂兵衛義教
中務茂兵衛「125度目/279度中」の四国遍路は自身48歳の時のものになります。キャリアの中では中期前半といったところでしょうか。
標石の裏面に表記されている内容
<裏面>
明治25年6月吉辰
右面と並んで判別が困難な面ですが、情報自体が少ないので解析は容易です。
明治25年は西暦1892年。
双子の100歳として有名になった成田きんさん・蟹江ぎんさんが同年8月1日に誕生されています。
正面の解析で触れた神峰「道」の件。
27番札所神峯寺は明治元年(1868)の神仏判然令によって神峯神社だけを残して寺院部分は廃寺になりました。本尊は一つ前札所である26番札所金剛頂寺に預けられ納経は兼任されることになります。
明治20年(1887)に堂宇が建立され札所として再興されますが、廃寺になったことにより寺格を喪失していたため名称に寺が付かず「神峯(こうのみね)」の名称での復活になりました。
茂兵衛さんが巡拝していた頃はまさにその時代に当たります。なので神峯寺道ではなく神峯道なのです。
現代に続く寺格は大正元年(1912)に茨城県稲敷郡(いなしきぐん)にあった地蔵院をこの場所へ移して元の神峯寺に改名したもので、
竹林山地蔵院神峯寺(ちくりんざんじぞういんこうのみねじ)
の院号に名残が見られます。
茨城県稲敷郡といえば日本第二の面積を誇る湖沼「霞ヶ浦(かすみがうら)」に面したエリアで、東のサラブレッド拠点「美浦トレーニングセンター」がある美浦村(みほむら)が稲敷郡に属します。神峯寺から数百km離れた場所ですが、どのようなご縁があったのでしょうね。
茂兵衛さんの時代も含め「神峯」と寺がつかない時代が長く続いたため寺格を復活させてからも寺をつけて呼ばれるようになるには更に時間がかかったようで、「神峯寺」の名称が浸透し始めたのは昭和時代になってからだったようです。
神峯寺へ向かうにあたって
27番札所神峯寺は、海岸近く(=標高0m)から標高約450mに向かって険しい登り坂が続きます。そのため道路事情が良くない明治時代以前は、ふもとにある寺院を参拝することで遥拝(ようはい)とするお遍路さんがいたとされます(現在それらの寺院は存在しません)。
現代ではふもとにある商店などに大きな荷物を預かってもらい、軽荷で行って帰ってくるというお遍路さんが多いように思います。この場所に限ったことではありませんが、コロナ禍の空白により有ると思っていた商店が営業していなかったという事例が存在しますので、お店に荷物を預けて上がろうと考えている人は事前の情報収集をおすすめします。
また、平成23年(2011)にふもとの唐浜(とうのはま)駅から中腹へ至る片側一車線の広域農道が開通したことにより、下りの約半分程度はそちらの道を進むことで次の札所への距離と時間の短縮を図ることが可能になりました。しかしながら、下りでその新道を進むとこちらの標石がある場所や登り始めた地点には下りて来ないので、荷物を置いて参拝し荷物を取りに戻って来ようと考えている場合は注意が必要です。
登山道は南向き斜面で太陽の光が盛んに降り注ぎ、しかも谷間を進むことから心地良い風はあまり期待できません。特に夏場は水分を切らしてしまうことがないよう、できれば安田町中心部で諸々を補給の上で27番札所神峯寺へ向かわれることをおすすめします。
27番札所神峯寺の山の麓、登山道の入口にあたる分岐点に残されいる中務茂兵衛標石は、神峯寺の変遷の歴史も知ることができる貴重な史跡です。登山の際には事前の情報収集やルート計画をしっかりと行った上で、安全に歩まれてください。
【「27番札所神峯寺の登山口分岐点にある中務茂兵衛標石」 地図】