【84番札所屋島寺→85番札所八栗寺】源平合戦の舞台となった地にある中務茂兵衛標石

順打ちで84番札所屋島寺から急坂を下ってきた地点。下山して右に曲がる場所に保存状態が良く、字の判別が容易な中務茂兵衛標石が残されています。このあたりは平安時代末期の源平合戦の舞台となった場所で関連史跡がたくさんあります。

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屋島の下り遍路道の先にある標石 立地

屋島から下り切った地点で、この付近が源平合戦の舞台となった場所と伝わります

 

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>

中務茂兵衛 写真

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。

 

標石の正面に表記されている内容

屋島の下り遍路道の先にある標石 正面

中務茂兵衛標石の寄進者に多い神戸・兵庫で暮らす施主さん

<正面>
右(指差し)
八栗寺
施主 ※本来の位置は住所と名前の間
神戸市元町二丁目
畑藤吉●
仝市福原甼
吉田●●

八栗寺→85番札所八栗寺(やくりじ)

神戸市元町二丁目(こうべしもとまち2ちょうめ)→現・神戸市中央区元町通1丁目-7丁目
仝市福原甼(どうしふくはらちょう)→現・神戸市兵庫区福原町

現在神戸の中心は「三宮(さんのみや)」という認識が一般的ですが、開港以前の神戸は小さな漁村。そこにあった街が「元町」です。現在は「元町通」の住所になり、JR東海道本線に沿って東西に1丁目から7丁目までわかれています。
神戸より歴史が古いのが「兵庫」で、「福原」の地名は平清盛の造営した福原京の名にも見ることができます。そもそも安政五カ国条約(1858)で開港地に定められたのは神戸ではなく「兵庫」になります。

 

標石の右面に表記されている内容

屋島の下り遍路道の先にある標石 右面

「島」と「嶋」で想像することができる話

<右面>
左(指差し)
屋島寺
臺百四十九度目為供養
周防國大島郡椋野村
施主 中務茂兵衛義教

屋島寺→84番札所屋島寺(やしまじ)

中務茂兵衛「149度目/279度中」の四国遍路は自身52歳の時のもの。それほど新しい標石ではありませんが、石の保存状態が良く字の判別が容易です。

戦前は「屋嶋」であったり、世間一般で「島」の漢字は「嶋」「嶌」と表記されることが多いのですが、こちらの石は「屋島寺」。そもそも茂兵衛さんの住所である「大島郡」は「島」の字のほうが用いられていることがが多く、「大嶋郡」と表記されている方が少ない気がします。もしかしたら茂兵衛さんは「嶋」より「島」の字の方が好みだったのかもしれません。単純に画数の多い字の方が彫りにくいので、その加減かもしれません。

 

標石の左面に表記されている内容

屋島の下り遍路道の先にある標石 左面

この時期まで一時的に広島が首都機能を有していた

<左面>
明治二十九年四月吉辰

明治29年は西暦1896年。同年同月、日清戦争により移転した広島大本営が終戦により解散しています。
「大本営(だいほんえい)」とは戦争指揮のために設置される大日本帝国軍の最高統帥機関。この時期に召集された第7回帝国議会は広島臨時仮議事堂で開会されています。すなわちこの時期は首都機能が一時的に東京から広島へ移ったことになりますが、東京以外での開会や首都機能移転は明治維新以降で唯一の例になっています。
広島がその地に選ばれたことについては、大型船が出入りすることができる良港が存在したことや、東京を起点とする鉄道が開通している西端が広島だったことに由来します。これが例えば山口県の徳山や下関まで開通していれば、そこが大本営になっていたかもしれません。一時的に首都となった広島の発展は目覚ましく、現在は中四国第一の都市になりました。しかしながら大本営が置かれる過程で軍都としての性格も強めていくこととなり、原子爆弾投下の一因になったともいえます。

広島大本営が置かれていた期間には、明治天皇が最高司令官として広島へ移り滞在したことで臨時の皇居が広島に存在したことになります。天皇が東京以外に滞在したことは明治以降で考えると珍しい例ですが、そこは日本においては有史以来脈々と続いてきた一族なだけあって、京都や東京以外に一時的に滞在した例は比較的存在します。こちらの標石がある場所もその中の一つで、近くに天皇を祀る神社があります。よろしければそちらの記事もお読み下さい。
※この近くの安徳天皇社に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。

【安徳天皇社】源平合戦期に讃岐國に置かれた臨時の皇居

 

急坂の屋島遍路道にご用心

屋島を見上げる

中腹を走っているのはドライブウェイを走る屋島山上シャトルバス

標石がある場所から振り返ると、標高292m(南嶺)の屋島が見えます。山にの上に見えているのは廃業されたホテルで、屋島寺を出て旧来の遍路道を進む場合はその場所から下り始めます。
よく整備された上り道と異なり、下り遍路道は急傾斜で所々補強のための鉄筋が露出している等、歩行には注意が必要です。また中間での屋島ドライブウェイ横断(横断時に車の音がしないか耳を澄ませてから渡るようにしてください)や、未舗装路が終わってからの急坂舗装路も楽ではありません。仮にこの場所から屋島へ登るとなると、その傾斜は逆打ち八十八ヶ所随一の遍路ころがしとさえいわれるほどです。

 

【「屋島の下り遍路道の先にある中務茂兵衛標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。