22番札所平等寺を出発するとすぐに桑野川を渡りますが、橋を渡った地点に中務茂兵衛標石がのこされています。白化が進んでいて記載内容が読み取りづらいですが、施主リピーターによる寄進の標石で、他所の標石の記載内容を参考に解読しました。

22番札所平等寺を出発して数分の桑野川を渡った地点に標石があり、23番札所薬王寺への順路は、標石と石板を右手に見ながら真っ直ぐ進みます。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石の正面に表記されている内容

施主リピーターの中井三郎兵衛氏による標石で、同氏の標石の特徴として「三」を模した屋号が入ることと、家族の名前が記載されることがあります。
<正面>
左(袖付き指差し)
(屋号)
貮拾三番藥王寺へ五里
施主
京都三条通東洞院西入
中井三郎兵●
同妻●●
同三●助
標石の白化が相まって、全体的に字の判別が難しい標石です。上下にわけてみていきたいと思います。

指差しと23番札所薬王寺までの距離が書かれた間に、施主の屋号を見ることができます。
<正面上部>
左(袖付き指差し)
(屋号)
貮拾三番藥王寺へ五里
貮拾三番藥王寺→23番札所薬王寺
阿波最後の札所への道のりは始まったばかりで、標石に記載されている五里は約20kmなので、通常の足並みであれば1日がかりの距離です。途中の旧福井南小学校付近で海ルートか山ルートを選ぶことになりますが、
【海ルート】
〇遍路道中で初めて海に出る
〇交通量が少ない
△距離3km増
△決してきつい勾配ではないけれど、何度かアップダウンあり
【山ルート】
〇最短距離
〇アップダウンがあったとしても幹線国道の規格(=そこまで勾配はきつくない)
△歩道のないトンネルがいくつか有る
△景色が単調
△交通量が多い
最短距離で行くならば、国道55号を歩く山ルートをお進みください。基本的に22番札所平等寺から23番札所薬王寺への距離は山ルートの距離になります。交通量が多いといっても、平成23年(2011)7月に同区間に日和佐道路が開通してから国道55号(山ルート)の通行車両は激減しました。当ルートには歩道が無いトンネルがいくつかあって危険を感じる場面が多々ありましたが、それはかなり軽減されました。
個人的なお勧めは海ルートです。遍路道中で初めて海に出る、鉄道が並行しているのでエスケープルートに成り得る、トイレがいくつもある、変化があって飽きない、交通量が少ないので落ち着く、距離が3km余計にかかったとしても気にならないくらい爽快な道のりです。
※それら両ルートを選択する地点(=旧福井南小学校付近)には、中務茂兵衛標石がのこされており、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【22番札所平等寺→23番札所薬王寺】今と昔で与える情報が異なる中務茂兵衛標石

消えてしまっている字が多いのですが、施主リピーターさんなので見える字を手掛かりに思い返していくと記載内容が見えてきます。
<正面下部>
施主
京都三条通東洞院西入
中井三郎兵●
同妻●●
同三●助
京都三条通東洞院西入(きょうとさんじょうどおりひがしのとういんにしいる)→京都市中京区三条通東洞院西入梅忠町(きょうとしなかぎょうくさんじょうどおりひがしのとういんにしいるうめただちょう)
さすが京都の住所という感じですね。この場所は京の中心も中心で西國三十三所18番札所頂法寺六角堂がある付近です。中心の根拠になる「へそ石」と呼ばれる史跡が、同寺の境内にあります。
※頂法寺六角堂に関しては、オーダーメイド納経帳・御朱印帳「千年帳」のサイトの以下リンクの記事で紹介されていますので、こちらもぜひご覧ください。
【御朱印情報】京都府「六角堂」の六角形の梵字朱印が個性的な各種霊場・仏様の御朱印
※四国各地にある中井三郎兵衛氏の寄進による中務茂兵衛標石は、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【31番札所竹林寺近く】京都の中心で暮らす人物による五台山麓の中務茂兵衛標石
【別格13番札所仙龍寺近く】奥の院への入口にあたる場所にある中務茂兵衛標石
【87番札所長尾寺手前】現在の遍路道ではない場所に立っている中務茂兵衛標石
標石の右面に表記されている内容

明治31年は日本において夫婦同姓が規定された年で、それまでの日本社会は夫婦別姓が基本だったようです。
<右面>
明治三十一年三月吉辰
明治31年は西暦1898年。
同年7月、夫婦同氏などを規定した明治民法の家族法が施行されました。よく「夫婦同姓は世界でも日本だけ」といわれますがそれは一部誤りで、事実上夫婦同姓が義務なのが日本で、世界的には完全に別姓か、同姓か別姓を選択することができる国や地域が多いようです。
そもそも明治時代以前の日本は別姓で、武士に嫁いだ妻が名乗る姓は実家の姓が一般的だったようです。例えば源頼朝と北条政子がそうですね。農民など一般民衆は苗字を名乗ることが認められていなかったため、その概念が存在しませんでした。明治になり新政府としてはこれまでの慣習通り夫婦別姓を指向していたものの、その時代の欧米の姓氏制度を見習って夫婦同姓が規定され、現在に至ります。
標石の左面に表記されている内容

こちらの標石では茂兵衛さんの肩書が「發願主」となっていて、多くの中務茂兵衛標石においてその部分は「願主」となっていることが多いので、發願主の記載は無くはないものの少数派になります。
<左面>
右(袖付き指差し)
寺等平
壱百五九度目為供養
周防國大島郡椋野村
發願主中務茂兵衛義教
中務茂兵衛「159度目/279度中」の四国遍路は自身54歳の時のもの。巡拝回数・建立年度を見るに、22番札所平等寺境内にある標石と建てられた時期はほぼ同じです。

標石・桑野川を渡る平等寺新橋・22番札所平等寺の位置関係はこのようになっていて、山の中腹に屋根が2枚見えておりますが、そちらが平等寺本堂です。
22番札所平等寺を出発してこの場所まで徒歩数分で、洒落た親柱と欄干を持つ平等寺新橋を渡ってやって来ます。なぜ札所から目と鼻の先であるこの場所になぜ標石があるのか、古い地図を開いて確認しました。
そうすると、かつてこの場所は変則五差路になっていたことが判明しました。そして橋が現在とは異なる位置に架けられていて、今のように平等寺から真っ直ぐ進んでいくような道では無かった感じです。すなわち橋を渡ると目の前に四方向の道が存在するイメージ。仮に十字路であれば、左右を除くと前に見える道は一つなのであまり迷わないと思いますが、五差路は左右を除いても目の前に道が二つあるわけで、そのような交差点ではちょっと考えてしまいます。
それらのことを考慮して、茂兵衛さんはこの付近に標石を設置したような気がしました。
※22番札所平等寺境内にある中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【22番札所平等寺境内】弘法大師ゆかりの白水霊場にある伊藤萬蔵寄進の中務茂兵衛標石
標石メモ
発見し易さ ★★★★★
文字の判別 ★★☆☆☆
状態 ★★★☆☆
総評:遍路道沿いにあって目に入りやすい。石の白化があり文字の判別が難しい。上部より下部はなおさら。幸い他方でも標石を寄進されている施主さんによるもので、その情報を読み取ることができたので、それが解読の手掛かりになった感じです。
※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません
【「平等寺新橋近くの中務茂兵衛標石」 地図】