71番札所弥谷寺と73番札所出釈迦寺は冬至のレイラインで結ぶことができます。空海の幼少期の足跡を示す重要なレイラインといえるでしょう。
空海の足跡を示すレイライン
空海が幼いときに学問を収めたとされる弥谷寺は四国八十八ヶ所霊場の71番札所ですが、その本堂から見て冬至の日の出の方向には73番札所の出釈迦寺が位置しています。
出釈迦寺は、空海の幼少時の有名な伝説がその由来となっています。
幼くして仏門を志した空海が7歳の時、出釈迦寺の背後に聳える我拝師山に登り、「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と願をかけて、断崖から身を投じました。
すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が、雲の中で弘法大師を抱きとめました。
このことが空海を本格的に仏門の道に進ませることになったと伝えられています。
後に、空海は自分が身を投げた我拝師山の山頂で虚空蔵菩薩像を刻んで安置し、ここに堂宇を建てたといいます。
「捨身ヶ嶽禅定」といい、今はここを奥の院として、麓に出釈迦寺が建てられています。
伝承では、空海は7歳のときに弥谷寺に入り、12歳までここで研鑽を積んだとされていますから、弥谷寺と出釈迦寺を結ぶ冬至の朝日は、空海が仏門を志して進んだ方向を指していることになります。
弥谷寺の背後に聳える弥谷山は古代の山岳信仰の名残が色濃い山で、今でも日本三大霊場(恐山・臼杵磨崖仏・弥谷山)の一つに数えられています。
弥谷山には死者の魂が集まり、しばらくここに留まってから彼岸へ渡っていくと信じられていました。
地元の人たちは、身内に葬式が出ると弥谷寺にお参りに出かけるのですが、その際、死者の霊を背負うような恰好で途中の水場まで登り、そこに霊を降ろしてくるという風習がいまだに残っています。
霊を降ろしたのちは、この世に未練のある霊に追いつかれないように、急ぎ足で下り、けして背後を振り返らないのだそうです。
まさに山中他界があると今でも信じられているわけです。
空海は自らが命を投げ出した我拝師山から、再生を意味する冬至の太陽とともにこの弥谷寺にやってきて、死者の世界である山中他界で仏法を収め、山から降りると、生まれ変わった学僧として奈良に学び、さらには遣唐使となって唐土で密教を収め、日本に帰るとこの国の宗教に一大革新をもたらしたのでした。
弥谷寺と出釈迦寺を結ぶこのラインは、短いラインですが、日本という国の中を流れる巨大な一筋の信仰の方向性を決定づけた極めて重要なラインだったといえるでしょう。
※本記事は三豊市でアウトドアツアーを実施している Free Cloud(フリークラウド) 主催の調査に基づくものです。