愛知県東海市にある知多四国霊場82番札所観福寺は、知多四国霊場の中でも特に歴史が長い「知多三山」のひとつで、伊勢湾台風で甚大な被害を受けながら復興を果たしました。尾張藩2代藩主や亮山阿闍梨ゆかりの寺院でもあります。
山にある地域の拠点で雨乞い加持祈祷の知多四国霊場82番札所観福寺
東海市(とうかいし)は、知多半島の北西部に位置し、公共交通機関が発達して衣食住に恵まれた地域です。田畑の面積が広く、玉ねぎやフキなどが特産品で、旬の時期になると市場にたくさんの野菜が並びます。江戸時代以前は、広く遠浅で入江がたくさんある干潟がありましたが、現在ではほとんどが埋め立てられています。
東海市の内陸部に、知多四国霊場の中でも特に歴史が長く中心的な役割を担う「知多三山」のひとつに数えられる、知多四国霊場82番札所観福寺(かんぷくじ)があります。
※知多三山に関しては、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【知多四国霊場】特に長い歴史をもち中心的な役割を担う「知多三山」
現在は周辺市街地を見下ろす丘の上に建っている観福寺ですが、昔は周りに民家や道はない緑豊かな山でした。西の海側は、現在は民家や道路がありますが、昔は全て遠浅の海と入江が沢山あり、「あゆち潟」という干潟も存在していました。かつての地域住民は、沿岸部と内陸部を行き来するために、お寺を経由する山道を使っていたようで、観福寺は地域の拠点として、また山岳信仰の修行の地として信仰を集めていたものと思われます。
近隣にある知多四国霊場83番札所彌勒寺(みろくじ)も、山の上に建ち、西側が海で、観福寺と同じような立地なので、共通の考えで寺院を建立する場所を決めたと考えられます。
観福寺は、大宝2年(702年)に「行基(ぎょうき)」よって開創と伝わっています。時代と共に衰退し、宝徳2年(1450年)に慶山によって復興され、江戸時代前期に尾張藩2代藩主・徳川光友(とくがわみつとも)の庇護を受け、寛文5年(1665年)に現在の本堂が建立されました。
観福寺の山号は「雨尾山(あまおさん)」で、この名前になった理由ははっきりはしていませんが、この地域の雨乞いに関連していると思われます。観福寺は天台宗の寺院なので、昔は五穀豊穣のための雨乞いの加持祈祷を行い、地域の人から信仰を集めていたことでしょう。
お寺の東側には天尾神社(あまおじんじゃ)があり、西の海側には天尾(あまお)という地名が現在も残ていますので、特に雨を求めた農業地域であったと考えられます。
伊勢湾台風の甚大な被害と復興
観福寺には立派な仁王門があり、迫力がある金剛力士像の造形美をみることができます。この金剛力士像は一度修復されており、その際に、いつの時代に作られたのか、誰が作者なのかが調査されましたが不明でした。
この仁王門の建っている場所には、かつて中門が存在していましたが、伊勢湾台風で崩壊し、別の場所に建っていた仁王門を移築した過去があります。
昭和34年(1959年)9月26日にのちに「伊勢湾台風」と命名された巨大台風が知多半島を通過しました。知多四国霊場の札所の中で、最も大きな被害にあったのが観福寺でした。この台風以前の観福寺は約3,000坪の広大な敷地にたくさんの建造物がありましたが、中門は見るも無惨に倒壊し、客殿、書院、庫裡があった場所にも大きな被害がありました。
その後の再建には膨大な費用が必要になり、境内の大部分を売却し、かろうじて残った建物を移築しました。客殿、書院、庫裡があった場所は、現在は民家になっています。仁王門も移築されて、昭和40年(1965年)に修復が完了し、現在の観福寺の姿になりました。台風以前と比較して、約3分の1までに敷地は減りましたが、復興を果たし、多くの参拝者が訪れています。
尾張藩2代藩主・徳川光友と御祖祖様
観福寺の本堂には、北から御祖祖様(おそそさま)、弘法大師、六観音、脇侍・不動明王、御本尊・十一面観音、脇侍・毘沙門天、六地蔵、不動明王、行基菩薩、元山大師と、1つのお堂に沢山の仏様が祀られています。このようなことは珍しく、大きく立派な本堂では、いろいろなご利益をいただけると評判です。
本堂に祀られている御祖祖様は、徳川光友の側室だった女性だといわれています。側室の中で容姿があまりよろしくなかったようで、仏道に入り悟りをひらいて、尼さんになったと伝わっています。ここに祀られることになった経緯の詳細は不明ですが、白く綺麗な像ですので、ぜひご覧になってみてください。
徳川光友の庇護を受けていた観福寺には、かつて徳川の間と呼ばれる豪華絢爛な部屋がありました。これは徳川光友が観福寺を訪れた際にお通ししていた専用の間で、昔の客殿北奥にありました。
しかし伊勢湾台風の被害で取り壊され、現在では面影もありません。徳川光友は、観福寺の西に別荘も建てて、近くの港から舟で熱田神宮によく向かっていたとも伝わっています。
知多四国霊場開創に貢献した亮山阿闍梨お手植えの椿
観福寺の仁王門の北側に、紅白椿の木があります。この椿の木は、知多四国霊場の開創に貢献した亮山阿闍梨(りょうざんあじゃり)が、開創記念に自ら植えた椿の木とされています。毎年時期になると綺麗な花が咲き、訪れた参拝者を楽しませてくれます。
大きさが違う椿の木が2本ありますが、これは、ある雪が降った日、近くの木が雪の重みに耐えきれずに倒れて椿の木をなぎ倒してしまい、添え木をしてなんとか命をつないだことが理由です。
亮山阿闍梨が知多四国霊場を創るべく、知多半島の寺院を説得して回っていたとき、いろいろな宗派の寺院を説得することが難しく、あきらめかけていました。観福寺を訪れた際に、当時の住職に気持ちをうちあけたところ、住職が優しく説得してくれたおかげでまたやる気がおきて、他寺院の説得の旅を続けられたというエピソードが残っています。
その後、知多四国霊場の開創を成し遂げた際に「観福寺の住職の話しがなければ諦めていた」という言葉も残したのだとか。観福寺への感謝の気持ちを表すために椿の木を植えたとされています。
※知多四国霊場開創の経緯、亮山阿闍梨の功績に関しては、以下リンクの記事で詳しくご紹介していますので、ぜひごちらもご覧ください。
【知多四国霊場】開創を成し遂げた三開祖の強い想いと大きな苦労・努力のエピソード
観福寺は、地域の拠点寺院として発展し、尾張藩2代藩主・徳川光友に庇護を受け隆盛を極めた大寺院でしたが、伊勢湾台風で壊滅的な被害を受け、苦難の道を歩みながら復興を果たしました。仁王像やたくさんの仏様が祀られる本堂、亮山阿闍梨お手植えの椿など、現在残るたくさんの見どころを、復興の歴史を理解した上でご覧になれば、ありがたみが増すと思います。
【「知多四国霊場82番札所観福寺」 地図】