【知多四国霊場】開創を成し遂げた「三開山」の強い想いと大きな苦労・努力のエピソード

現代の「知多四国霊場」の礎となった「准四国霊場」が開創されたのは、江戸時代の文政7年(1824年)のことです。その開創には、知多四国三開山として今でも尊崇される3人の賢人の強い想い、大きな苦労と努力がありました。

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亮山阿闍梨の夢枕と四国での修行の旅

江戸時代末期の文化6年(1809年)、現在の愛知県知多‪‪市古見にある妙楽寺(みょうらくじ)の13世である亮山阿闍梨(りょうざんあじゃり)と呼ばれる立派な僧侶に起きた出来事です。
※愛知県知多半島に古くから弘法大師空海信仰が根付いていたことに関連する伝承に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。

【知多四国霊場】愛知県知多半島にのこる弘法大師空海の伝承

夜睡眠中に弘法大師空海が枕元に現れて次のように言いました。
「亮山に頼みがある。知多は運命の土地。そろそろ実現する時が来ました。知多半島に八十八ヶ所の霊場を作って下さい。他に2人、協力者をつかわすので3人で成し遂げなさい」と。空海が消えたそばには砂が落ちていました。
亮山和尚は驚きましたが、信仰が深く位の高い僧侶だった為、空海からの言葉をありがたく受けとめます。
このことがきっかけになり、和尚はのちに、空海が修行した四国に行き、霊場や歴史をたどる旅をしたそうです。四国の旅の道中では、当時すでに「お接待」の文化が根付いていて、地域の人たちからおもてなしをされたことにいたく感動されたようです。
高知県室戸岬にある空海修行の聖地「御厨人窟(みくろど)」にも訪れ、空海が行ったとされる修行「虚空蔵求聞持法」に挑戦したとのこと。
四国には修行の旅に3回赴いたと伝わっています。

妙楽寺_亮山阿闍梨像

妙楽寺には、知多四国霊場開創のきっかけをつくった亮山阿闍梨の像が安置され、その功績を称えています。

亮山阿闍梨_手甲

亮山阿闍梨が実際に使用したと伝わる手甲など、遺品も大切に保管されています。

 

知多四国霊場開創の苦労と助っ人の登場

文政元年(1818年)、3度目の四国の旅から帰宅した亮山和尚は、霊場作る為にひとりで出かけますが、なかなか思う様には行きませんでした。知多半島には300以上の寺院が存在し、弘法大師空海開創の真言宗ではない他宗派のお寺も多かったために説得するのが困難でした。

月日が流れて文政2年(1819年)。百姓だった尾張国福住村(現在の愛知県阿久比町)出身の岡戸半蔵(おかどはんぞう)が妙楽寺に現れます。彼は流行の病気で亡くした妻子を供養する為、全国霊場巡りの途中に妙楽寺に立ち寄ったそうです。
実はこの人は、空海のお告げにあった助っ人のひとりでした。
岡戸半蔵は、亮山和尚の話や空海のお告げをありがたく思い、残りの人生を全て霊場開創に捧げる為、持っていた家や田畑を全部売り払って資金にし、亮山和尚と協力して説得の旅に出ます。

文政6年(1823年)、亮山和尚と岡戸半蔵が説得の旅の途中に医王寺へ寄った際、お寺を訪れていた讃岐国(現在の香川県)の武田安兵衛(たけだやすべえ)と出逢います。
武田安兵衛は、讃岐高松城に仕える身分の高い侍で四国霊場巡礼も経験しており、以前に亮山和尚が四国を旅しているときに屋敷に泊めてもらったこともある親切で信仰の深い人物でした。和尚が四国に滞在中に、空海の話や知多四国を創建するかたい決意を夜中まで熱く語り合った仲でした。
武田安兵衛も協力者のひとりで、亮山和尚に協力する為に侍をやめ、四国八十八ヶ所全霊場の砂を持って知多にやってきたのです。

3人が出逢ってから2年後の文政7年(1824年)。知多半島にあるたくさんの寺院を説得した結果、知多四国八十八ヶ所霊場全札所が誕生しました。当時は「准四国霊場」という名で呼ばれることになります。亮山和尚53歳、苦節16年で成し遂げた偉業でした。

知多四国霊場開創案内看板

知多四国霊場の開創のエピソードが記された看板が、知多四国霊場13番札所安楽寺にあります。

 

現代でも尊崇される知多四国三開山

霊場誕生のために奔走した3人は、知多四国の三開山として、現在でも尊敬されています。
知多四国霊場には「開山所」と呼ばれる3つの札所が八十八ヶ所とは別に存在し、3人がそれぞれ眠っています。

妙楽寺には亮山阿闍梨。
誓海寺禅林堂(せいかいじぜんりんどう)には岡戸半蔵、誓海寺には妻子の供養塔もあります。
葦航寺(いこうじ)には武田安兵衛。武田は知多四国霊場開創の2年後に38歳の若さで葦航寺近くの十三堂で亡くなったそうです。

誓海寺禅林堂

誓海寺禅林堂には、岡戸半蔵の石像と、半蔵が建立した大乗妙典六十六部供養塔が祀られています。

葦航寺

葦航寺には武田安兵衛が祀られており、知多四国霊場開山所のひとつとして巡礼者が訪れます。

 

このように三開山のたいへんな苦労と努力があり、知多四国霊場は開創されました。現代でもゆかりの寺院が開山所として知多四国霊場に含まれていますので、知多四国霊場を巡礼される際には、開創のエピソードを胸に、知多半島で巡礼の旅ができることに感謝しながらお参りされてください。
※知多四国霊場開創後、「准四国霊場」から「知多四国霊場」へと発展していく歴史に関して、以下リンクの記事に続きますので、ぜひこちらもご覧ください。

【知多四国霊場】開創から現代までの巡礼スタイル変遷の歴史

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この記事を書いた人

知多半島のお寺が好きで、知多四国霊場を中心にいろいろな霊場を巡礼し、観光やご当地グルメ(特にラーメン)も楽しんでいます。御朱印集めも趣味で、知多半島のお寺の御朱印はもちろん、全国各地の御朱印をもらいに巡り、アート御朱印などは取り寄せたりもしています。