近代になって発達した交通機関にとっても高知県の久礼坂の克服は大きな課題となり、その時代時代の最新技術が用いられてきました。 影野駅には交通の要衝として機能していた名残を見ることができます。
お遍路さんにとって難所となる遍路ころがし・久礼坂(添蚯蚓往還 及び 七子峠) の様子は、以下リンクの記事もぜひご覧ください。
【36番札所青龍寺→37番札所岩本寺】旧往還そえみみず遍路道・前編
【36番札所青龍寺→37番札所岩本寺】旧往還そえみみず遍路道・中編
【36番札所青龍寺→37番札所岩本寺】旧往還そえみみず遍路道・後編
—– こちらの記事に登場する主な地名・単語
久礼坂(くれざか)
添蚯蚓(そえみみず)
往還(おうかん)
七子峠(ななことうげ)
影野駅(かげのえき)
窪川駅(くぼかわえき)
土佐久礼駅(とさくれえき)
敷設(ふせつ)
土讃線(どさんせん)
煤煙(ばいえん)
五社(ごしゃ)
プラットホームから眺める両方向
久礼坂を進んで来たお遍路さんは、こちらの方向に向かって歩いて行きます。
※お遍路さんにとっての影野駅の利便性に関しては、以下リンクの記事もぜひご覧ください。
一部列車は影野駅で行き違い(交換)が行われ、すぐに単線に戻り、先の高速道路が見える辺りでトンネルへと入り、急坂を下って行きます。
この駅からすると土佐久礼方面は急な下り坂 ですが、逆から来る列車にとっては "急な上り坂"。地形や技術面を駆使して当地に線路が敷設されたのが昭和22年(1947)、戦後の事でした。
影野駅の広い駅構内に秘められた歴史
土佐久礼~影野間の駅間距離10.7kmは四国内最長。
※ JR四国管内としては瀬戸大橋区間の児島~宇多津18.1km
土佐久礼駅の標高8.3mに対して影野駅の標高は252mと高低差が200m以上あり、かつて国鉄を敷設する際に上限勾配の目安とされた25パーミルが連続する急勾配区間となっている。
※ パーミル(‰)… 1,000m進むのに25m上がる
25パーミルを超えると工事経費の増大や開通後の列車運用に支障をきたすため、建設には特別な許可が必要となる。 開通が戦後になったのは、高知県の人口の少なさを考えると船での往来で十分と判断されたのか、軍事戦略上 この峠越えが重要視されなかったことが考えられる。
影野駅は昭和22年の開通後、しばらくは土讃本線(現土讃線)の終着駅として、単体では坂を上がることができない列車を補う機関車(プッシュプル運転)の基地として機能した。近隣の街規模や需要の割に構内の土地が広く取られているのはそのため。往時は機関車の方向を転換する転車台や 石炭と水を充填する給水塔、駅職員が待機する詰所などがあり、駅周辺は相当賑わったらしい。
以前この土地に住む古老の方にお話しをうかがうことが出来たのですが、
「鉄道の開通によって久礼坂を歩いて往来する苦労はなくなったが、急勾配を高出力で運転するため連続するトンネルと合わせて車内は煤煙が充満、何も見えなくなるほど。影野に着く頃には顔も服も真っ黒になった」
と教えてもらいました。
SL時代の峠越えはどこも同じ事情で、地方のJR駅に行くとプラットホームに洗面台が残されていることがあるのはそのためです。
昭和22年(1947)… 土讃本線 土佐久礼~影野 開通
昭和26年(1951)… 影野~窪川 開通 多度津~窪川間 土讃本線全通
上部にはすっかり草が生えてしまっていますが、こちらはプラットホームの跡。石積みのホームが歴史を物語ります。
歩き遍路の場合、影野駅から国道56号に出ることなく、この方向に進んで行けば、車があまり来ない道をしばらく進むことが可能。
現在の駅周辺の事情、進む先にあるもの
列車を補完する交通機関ですが、学休日は運休。そしてこの場所が終着停留場。現在は久礼坂区間にはバスが運行されておりません。
駅前にある 「四国のみち」の案内看板。旧37番札所・五社(現高岡神社)へのルートが記載されています。第37番岩本寺へ直行するより少し距離が増えますが、そちらへ行くとかつての巡礼ルートを辿れる事と、四万十川を見ることができます。
最短距離で札所を目指した場合、四万十川に出くわすのは50km近く先。そこはもう河口付近です。
ただお寺を回るだけでは、その土地に秘められた歴史に気付くことはありません。
難所であればあるほど、それを克服するために先人は知恵を絞り努力を重ねた。遍路道では石畳であり切通であり… 鉄道はスイッチバックであったり…そのことを知ります。
険しい遍路ころがしに差し掛かった時は、人智を結集して峠の克服に挑んだ先人の努力に 想いを馳せてみてください。
【「影野駅」 地図】