【70番札所本山寺近く】財田川土手の遍路道のそばに移設されている中務茂兵衛標石

順打ちで69番札所観音寺から70番札所本山寺を目指して財田川の土手を歩いて来たところ。本山寺がもうすぐの場所に中務茂兵衛標石が残されています。70番札所を指し示す方向が逆になっているので、道路工事で移設されたものと思われます。

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第70番本山寺手前財田川土手の標石

第69番観音寺から第70番本山寺への道中で、この辺りの遍路道は財田川右岸の土手上

 

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>

中務茂兵衛 写真

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。 22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は歩き遍路最多記録と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。
明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。

 

標石の正面に表記されている内容

第70番本山寺手前財田川土手の標石 正面

本山寺は奥に見えている団地の向こうなので、指差しの方角とは合わない

<正面>
右(指差し)
本山寺
豊後國南海部郡八幡村
施主
鶴野源六
戸高米造
戸高コウ

本山寺→70番札所本山寺(もとやまじ)
標石が立っている場所は、財田川(さいたがわ)の土手から一段下りた地点。お遍路さんはこの土手を歩いて来るので、石は見下ろす感じになりすぐ横を通ることはありません(遍路道と標石の位置関係は一枚目の写真参照)。ここから本山寺までは5~10分の距離。けれど指差しが表している方角が寺の位置と真逆なので、標石自体が道路工事等によって移設されたものと思われます。

豊後國南海部郡八幡村(ぶんごのくにみなみあまべぐんはちまんむら)→現・大分県佐伯市(おおいたけんさいきし)
明治22年(1889)4月…南海部郡八幡村誕生
(大正5年(1916)7月…南海部郡佐伯町「さえき」から「さいき」に改称)
昭和16年(1941)4月…佐伯町を含む近隣町村と合併、佐伯市誕生

大分県南部に位置する港町で暮らす施主によるもの。大分県は隣接する福岡・熊本・宮崎各県とはいずれも山で隔てられてるため、海を通じた行き来のしやすさや実際に景色として見えている四国との交易が古くから盛んな土地柄。仏教文化(寺院が多く見られる)や石鎚山信仰など。四国八十八ヶ所も例外では無く、標石の寄進者においてもこちらのもののように大分県の施主による石を見つけることができます。
※大分の施主による標石は以下リンクの記事でもご紹介しています。

【別格6番札所龍光院参道】標石から読み取れる四国と九州の繋がり
【72番札所曼荼羅寺境内】達筆な字体が特徴の中務茂兵衛標石

標石に記されている南海部郡八幡村は現在の佐伯市。街の中心駅・佐伯駅(さいきえき)の隣に「海崎(かいざき)」という駅がありますが、その辺りがかつての八幡村です。
今でこそ市名は「さいき」に統一されていますが、かつては「さえき」の呼び名が一般的だったようです。実際、大正5年(1916)日豊本線(にっぽうほんせん)開通時の名称は「さえき」。昭和37年(1962)1月に「さいき」に改称されるまで 公式名称として用いられていました。

 

標石の右面に表記されている内容

第70番本山寺手前財田川土手の標石 左面

時代や場面によって読み方が異なる例がここにも

<右面>
左(指差し)
観音寺
臺百七十九度目為供養建之
周防國大島郡椋野村
願主 中務茂兵衛義教

観音寺→69番札所観音寺(かんのんじ)
こちらは正面に表記されている本山寺と違い、方角が合っています。観音寺は69番札所を指すときは「かんのんじ」と読みますが、市名を指すときは「かんおんじ」と読みます。前述の「佐伯」と同様のケースです。こちらの標石の横を流れる財田川も川の名前やかつての自治体名は「さいた」ですが、JR土讃線の駅名は「讃岐財田(さぬきさいだ)」。今治も今でこそ「いまばり」に統一されていますが、かつては「いまはる」と呼び名が混在していた時代があり、大正9年(1920)9月に議会で「いまばり」に統一された経緯があります。時代や場面によって読みが異なるケースは世の中に多々ありますが、調べて行くと面白そうです。

中務茂兵衛「179度目/279度中」の四国遍路は自身56歳の時のもの。
本山寺大門前の石…明治32年(1899)3月…167度
この場所の石…明治33年(1900)8月…179度
17ヶ月(1年5ヶ月)でプラス11周。平均すると1.5ヶ月(40~50日)で1周。1周40日としても当時の道路事情を考えるとかなりの速さですが、それを1年半近くも持続しているのは驚異のほかありません。
※本山寺大門前の標石は、以下リンクの記事でご紹介しています。

【70番札所本山寺門前】大師誕生の地への近道が記された本山寺門前の標石

 

標石の左面に表記されている内容

第70番本山寺手前財田川土手の標石 右面

歴史あるテニスの世界大会が始まった年

<左面>
明治33年8月吉辰

明治33年は西暦1900年。19世紀最後の年。同年同月、第1回国別テニス大会が開かれました。現在はデビスカップの名称で開催されています。
100年を超える歴史の中でこれまで1915-1918の第一次世界大戦とスペイン風邪の流行、1940-1945の第二次世界大戦の勃発により開催されなかったことはありますが、2020年大会は新型コロナウイルスの世界的流行によりそれ以来の非開催年となりました。2020・2021年と2年がかりでの開催が予定されています。

 

橋脚に見る西日本豪雨の爪痕

財田川橋りょう

琴弾山の頂上からは「寛永通宝」の砂絵を眺めることができる

標石の観察の後、財田川の土手(=遍路道)に戻り来た道を振り返って見たところ。右奥にかつて第68番札所があった琴弾山(ことひきやま、標高70m)を見ることができます。現在の68・69番はこの山のふもとにあり、八十八ヶ所で唯一1箇所2札所になっています。

列車が渡っている鉄橋はJR予讃線の財田川橋りょう(さいたがわきょうりょう)。大正2年(1913)12月の「多度津-観音寺」開通によって架けられました。切石積みの橋脚が路線の歴史の古さを伝えていますが、川の中央に1本だけ真新しいコンクリートがあることが分かります。こちらは平成30年(2018)7月の西日本豪雨による川の増水で橋脚が損傷したため架け直されました。

 

【「70番札所本山寺手前財田川土手の中務茂兵衛標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。