80番札所国分寺の門前に数基の標石が移設されており、その中の1基に中務茂兵衛標石が存在します。最初期の88度目標石には、札所番号順でいくと3ヶ寺先の83番札所一宮寺が示されていますが、これにはどのような理由があるのでしょうか。

80番札所国分寺の山門に向かって左側に、複数の標石がまとめられています。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石の正面に表記されている内容

この場所は80番札所国分寺で、「一之宮」は83番札所一宮寺のことなので、札所番号でいえば3ヶ寺先の行先が知らされていることになります。
<正面>
一之宮道
是ヨリ七十五丁
一之宮→83番府札所一宮寺
①79番札所天皇寺・・・80番札所国分寺・・・81番札所白峯寺
こちらの標石がある80番札所国分寺の前後札所は79番札所天皇寺と81番札所白峯寺になりますが、①番号通りに進行すると81番札所白峯寺と82番札所根香寺がある山上で行ったり来たりすることになるため、
②79番札所天皇寺・・・81番札所白峯寺・・・82番札所根香寺・・・80番札所国分寺・・・83番札所一宮寺
という、打戻りが最小限になるルートも存在します。個人的な感覚ですが、現代は①のお遍路さんが多く、昔ほど後者の②のルートを選択する人が多かった印象があります。実際、中務茂兵衛標石の多くは②のルートを推奨しているように感じます。
※②のルートを示す中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【83番札所一宮寺西の路傍】札所順とは異なる行先を示す中務茂兵衛標石
そもそもこの場所は80番札所国分寺で、当標石に記載されている行先は83番札所一宮寺で、札所番号だけで考えると3つ飛ばしになるわけです。こちらは現代の感覚、特に車両で四国八十八ヶ所を回られているお遍路さんがこちらの標石を目にすると「あれ。次は一宮寺だっけ?」と不思議に思われるかもしれません。
昔は僅かだとしても距離増を避けたい
今は番号通りに回ったほうが気持ち良い
四国八十八ヶ所の回り方一つ取っても、時代ごとの流行や価値観が反映されているように思います。
標石の左面に表記されている内容

中務茂兵衛標石最初期の88度目の標石で、後年の標石では見られない表現をいくつも目にすることができます。
<左面>
左
髙松
八十八廻目為供羪
防州大嶋郡椋埜村
行者中司茂兵エ建之
巡拝回数の単位が「廻」→後年は「度目」に統一
防州→最も多いのは周防國。しばしば長州の表現。防州は珍しい
行者→最初期の標石で見ることができる肩書
中司→本名。後年は中務茂兵衛義教

「防州」の表現を初めて目にしました。
<左面下部>
八十八廻目為供羪
防州大島郡椋埜村
行者中司茂兵エ建之
周防國(すおうのくに)…山口県南東部の旧國名。茂兵衛さんの実家がある
防州(ぼうしゅう)…周防國の略称
長門國(ながとのくに)…山口県北西部の旧國名
長州(ちょうしゅう)…長門國の略称
長州藩(ちょうしゅうはん)…江戸時代に周防國と長門國を領国とした外様大名・毛利家の領地
山口県…長州藩が治めていた地域を引き継いだ県
防長(ぼうちょう)…長州藩や山口県の別称。 ※周防と長門を合わせたエリアという意味
長州とは本来は長門國の略称になりますが、世の中的には長州と書いて長州藩のことや領域を指していたりするので、前後の文言に注意が必要です。
標石の裏面に表記されている内容

88度目の標石は自然石であったり他と大きさが異なることが多いのですが、こちらは後年に登場する標準的な標石とほぼ同じ大きさです。
<裏面>
明治十九年三月吉祥日
讃州高松通町壱丁目
願主稲垣京三郎
明治19年は西暦1886年。
同年5月、アメリカのアトランタでコカ・コーラの販売が開始されました。日本での販売は大正9年(1920)9月からです。明治屋と満平薬局が輸入販売を行ったことが初めてのこととされます。当初はシロップでの販売で、それを各自ソーダ水で割って楽しむよう案内されていたそうです。
日本法人としての製造販売は昭和32年(1957)6月のことで、同社は昭和37年(1962)から飲料自動販売機の設置を開始しました。夏場など、遍路道沿いにある自動販売機によって助けられた歩き遍路さんは多いのではないでしょうか。私はその一人です。
讃州高松通町壱丁目→現・香川県高松市通町(とおりまち)
通町は高松琴平電気鉄道(ことでん)片原町駅の東側に広がる街区です。戦前は通町1丁目・2丁目があったようですが、通町を含む高松市中心部は昭和20年(1945)7月の高松空襲で壊滅的な被害を被りました。
高松は戦災復興土地区画整理事業において区画整理や道路の拡幅が比較的大きな規模で行われたため、古い街並みはあまり見ることができません。
「高松」「通町」「稲垣(氏)」といえば、6番札所安楽寺の門前にある標石にも同様の施主情報が記されています。
※6番札所安楽寺門前の中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【6番札所安楽寺門前】修復した指差しが大きく目立つ門前の中務茂兵衛標石
80番門前の標石…88度目/明治19年 ※本記事の標石
6番門前の標石…181度目/明治34年 ※上記リンクの標石
両標石とも施主の姓は同じ稲垣氏ですが、名前が異なります。後者は当標石の建立から15年経過しておりますので子孫か親族か、茂兵衛さんとのお付き合いが次代の人物に引き継がれてた可能性がありそうです。
※同じ高松市国分町内に移設されている中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【高松市国分寺町】金刀比羅宮の情報が目立つ移設された100度目の中務茂兵衛標石
標石メモ
発見し易さ ★★★★★
文字の判別 ★★★★☆
状態 ★★★★☆
総評:最初期の中務茂兵衛標石ながら、刻まれている文字ははっきりしていて判別が可能です。記載されている表現が後年に一般化したものと異なるので、特別感があります。80番札所国分寺山門前及び駐車場区画内にあるので、歩き・車両共に標石を見つけるのは容易です。
※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません
【「80番札所国分寺門前の中務茂兵衛標石」 地図】