【76番札所金倉寺門前】大先達「中務茂兵衛」のお遍路さんへのメッセージが刻まれた標石

四国各地で見られる中務茂兵衛の標石。各面を一つ一つ眺めていると、その当時の情勢や後年訪れるお遍路さんへのメッセージなど多くの情報を見て取ることができます。茂兵衛さんゆかりの76番札所金倉寺の門前の標石は好例です。

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中務茂兵衛さんメモ

明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し回られた方で、山口県の周防大島出身。
18歳の頃に周防大島を離れ、一度も故郷に戻ることなく四国を回る事 約280回。
バスや自家用車が普及している時代ではないので、全て徒歩での記録。
回った回数は歩き遍路では最多記録と名高い。
明治19年(1886年)、自身42歳・88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。
その遍路石は四国各地の札所の境内、遍路道沿いにその石が多く残されている。

 

 第76番金倉寺の門前に立つ遍路石

金倉寺門前の遍路石 中務茂兵衛建立

中務茂兵衛建立遍路石

< 遍路石北面 >
善通寺 金毘羅(金刀比羅とも)
豊後國南海部郡米水津村大字竹野浦
施主 武野フイ

茂兵衛さんの標石の特徴は、自身は発起人となり、施主(スポンサー)を募るスタイル。
生活が大変な時代に浄財を供出することは容易ではなく、繰り返し四国遍路を行い 「大先達」「生き仏」と慕われた茂兵衛さんだから為せる業。

こちらの施主さんは 大分県南東部の方。
南海部郡米水津村大字竹野浦(みなみあまべぐんよのうずむら おおあざたけのうら) → 現在の佐伯市
海を隔てて四国に向き合う大分県では 仏教文化が根付き、四国遍路を行うために海を渡る者が 今も昔も多い。

以前の記事でご紹介した神仏分離によって神社となった金刀比羅宮だが、庶民にとっては古くからの慣習である神仏習合が すぐに改められるわけではなかった。
※「金刀比羅宮」に関しては、以下リンクの記事もぜひご覧ください。

【象頭山松尾寺】「こんぴらさん」の名前の由来になった本尊が祀られる寺院

大きな寺社が憧れの存在であることは変わらず、
「せっかくここまで来たのだから…」
と、こんぴらさんへ向かうお遍路さんは多かったことでしょう。
その感覚は我々の旅行にも通ずるところがありますよね。
特に遠方であればあるほど 一度に訪れておきたい。
愛媛辺りでは 一度遍路を中断して広島へ渡り、厳島神社(宮島さん)を参詣して、再び四国に戻る者もいた様子。

 

標石が建てられた年代

金倉寺門前 中務茂兵衛遍路石

中務茂兵衛建立遍路石

< 遍路石西面 >
壹百貮拾壹度目為供羪
周防國大島郡椋野村産
願主 中務茂兵衛 建立

茂兵衛さん121度目(47歳)の時に建てられたものであることがわかる。

 

標石に刻まれた添句

金倉寺山門と中務茂兵衛遍路石

第76番金倉寺門前に立つ遍路石

< 遍路石南面 >
明治二十四年十一月吉辰
< 遍路石東面 >
真如乃月(しんにょのつき) かがや久(く)や 法の道(のりのみち)

"真如" とは、ありのままの姿
"真如の月" とは、明月が闇を照らす如く 迷い(煩悩)が晴れる様子
"法の道" =仏道=四国遍路

四国遍路を行うことによって 迷いや煩悩が晴れ、ありのままの姿となれる。
この句歌はそのようなメッセージではないかと推察される。

 

中務茂兵衛さんは1877年(明治10年)にこちら金倉寺で得度を受け、茂兵衛の名を授かっている。
32歳の時。
それから15年後に建てられたこの遍路石は、絶える事なく訪れるお遍路さんに道順と四国遍路の効果を伝え続けています。

 

【「金倉寺門前の遍路石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。