【35番札所清瀧寺→36番札所青龍寺】天下分け目の合戦が行われた地の施主による標石

「天下分け目の大戦(おおいくさ)」といえば一般的には関ヶ原の戦いを指しますが、それ以前にも日本史の転機になった戦が存在しました。こちらで見ることができる標石は、その合戦の地で暮らす施主によるものです。

仁淀川からの水路に立つ標石 立地

交差点南西角の水路に蓋をした上に立つ標石

 

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>

中務茂兵衛 写真

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。

 

水路の上に立つ標石

仁淀川からの水路に立つ標石 水路の上

仁淀川が近く水資源が豊富な土地柄

多くのお遍路さんがこちらの標石を初めて目にする際は、このような見え方だと思います。

前後の札所としては、

第35番清滝寺(きよたきじ)
第36番青龍寺(しょうりゅうじ)

になります。

標石は今のように水路の上ではなく元々交差点に立っていて、道路拡幅に際して交通の妨げにならない場所へ移されたのではないかと思います。一般的に道路と水路では後者の方が整備された歴史が古いケースが多く、この場所に関しては近くを流れる仁淀川から引かれた水が水路となり、灌漑用水や水運等に用いられてきた経緯があります。

 

標石の正面に表記されている内容

仁淀川からの水路に立つ標石 正面

サイズが大きく記載内容がはっきりしているので観察しやすい

<正面>
左(指差し)
青龍寺
一里半余
二百五十九度目為供養
山口縣周防國大島郡椋の村
施主 中務茂兵衛義教

青龍寺→第36番青龍寺

中務茂兵衛「259度目/279度中」の四国遍路は自身71歳の時のもの。標石事業の集大成とも言える巡拝回数。それだけに石のサイズは巡拝回数が若いものより一回り大きく、字体がしっかりしているため判別が容易。場所もわかりやすいので、観察には向いている標石といえます。

 

標石の右面に表記されている内容

仁淀川からの水路に立つ標石 右面

神戸の橘という地について考察

<右面>
右(指差し)
清瀧寺
一里
神戸市上橘通四丁目
為貞證信女
施主 浅井栄●
妻 きぬ

清瀧寺→第35番清滝寺
神戸市上橘通(こうべしかみたちばなどおり)→現兵庫県神戸市兵庫区西橘通・上西橘通

JR神戸駅西側に広がる街区で暮らす施主によるもの。記載されている内容から、施主夫妻がどなたか亡くなられた女性の供養の為に建てたものなのか、という印象です。

石に記されている「橘」の地には「楠公さん(なんこうさん)」こと楠木正成(くすのきまさしげ/1294-1336)がまつられている湊川神社(みなとがわじんじゃ)があります。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、南朝方の武将として名を馳せた人物。橘とはさかのぼると奈良時代の皇族「橘諸兄(たちばなのもろえ/684-754)」のことで、正成が橘氏の末裔を名乗ったことが地名の由来になっています。
系譜について真偽のほどはともかく有力武士の祖先が皇族なのは珍しいことではなく、例えば平氏は第50代桓武天皇(かんむてんのう737ー806)。源氏は第56代清和天皇(せいわてんのう/850ー881)の末裔とされます。いずれも皇籍離脱によって武士に転身したもので、これを臣籍降下(しんせきこうか)といいます。現代においては皇族が武士になることはありませんが、主に女性皇族が民間人と結婚する場合に「しんせきこうか」の単語が登場します。その場合は「臣籍降嫁」と書きます。

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この湊川の地で起きた天下分け目の合戦について少し掘り下げて考察したいと思います。
※湊川神社は現住所の上では神戸市中央区多聞通3丁目になります。

 

足利尊氏(あしかがたかうじ/1305-1358、室町幕府初代征夷大将軍)…後の北朝
後醍醐天皇(ごだいごてんのう/1288-1339、第96代天皇)…後の南朝

両者が協力して鎌倉幕府を滅ぼした「建武の新政(けんむのしんせい/1333)」までは良かったのですが、その後の事後処理が原因で二人は対立。後醍醐天皇に付く新田義貞(にったよしさだ/1301-1338)らの活躍もあり一度は九州へ敗走した足利尊氏でしたが、そこで力をつけ再度京を目指して進軍する足利軍を楠木・新田軍は湊川の地で迎え撃つことになります。

正成の戦略としては、帝(みかど/ここでは後醍醐天皇)には一旦比叡山に避難してもらい尊氏を京におびき寄せて討つほうが、地の利や旧来の部下の協力を得ることができて戦闘を有利に運ぶことができる。そう進言したものの、朝廷では天皇が何度も何度も後退することや、一度京を追い出した者をやすやす侵入させてしまっては民衆に示しがつかないとの意見が根強く、(京から見て)手前に位置する湊川(現在の神戸市兵庫区・中央区付近)で足利尊氏を食い止めるよう、正成に指示を出します。

この時の尊氏は筑前國(ちくぜんのくに/現在の福岡県)で起こった多々良浜の戦い(たたらはまのたたかい/1336)を経て形勢逆転。多数の臣民を得て再び京へ上る軍勢になっていて、それを討つのは容易ではないことを正成は察していたとされます。まして不慣れな湊川で戦うのは無謀。正成はその疑問を感じつつも後醍醐天皇への忠義を全てにおいて優先して湊川へ赴きます。
この史実は第二次世界大戦後期の九州沖航空戦(1945年3月)に際し、兵の口から「湊川へ行くようなもの」との揶揄を生んでいます。

湊川の戦い(1336)は足利軍50万に対して楠木・新田軍5万(太平記の記載でやや誇張が含まれています)。正成軍の奮戦むなしく弟・楠木正季(くすのきまさすえ)と一旦民家敷地へ逃れ、

兄「お前はこの後どこへ行くのか」
弟「再び人間界に生まれて、朝敵を討ちます」
兄「ならば生まれ変わったらまた出会い、お互い願いを叶えよう」

そのような会話がなされた後、兄弟刺し違えて自害しました。この時、最終的な兵力は70騎余りになっていたそうです。

戦の後、足利尊氏は京へ上り北朝や室町幕府を開くことになるので、結果的に湊川の戦いが中世の日本における転機になりました。この戦いが京で行われていたら…百戦錬磨の楠木正成の術中により尊氏は破れ、政権を掌握することができなかったかもしれません。
そうなると子孫が鹿苑寺(ろくおんじ/金閣)・慈照寺(じしょうじ/銀閣)を建てることはなかったでしょうし、後醍醐天皇が吉野へ逃れて南朝を開くことがなく、「日本一の桜」と称される吉野桜が今ほど発展しなかったかもしれません。そうなると日本を代表する桜・ソメイヨシノの名称が違っていたかもしれませんし、お花見の対象が違う花になっていたかもしれません。

そのような想像をすることをできるのが、神戸における「橘」の地名です。

 

標石の左面に表記されている内容

仁淀川からの水路に立つ標石 左面

この年に高校野球が始まりました

<左面>
大正四年七月吉辰
地主 田所喜太●

大正4年は西暦1915年。世界では第一次世界大戦が行われています。
同年8月18日に第1回大会が開催されたのが「全国中等学校優勝野球大会」。後の全国高等学校野球選手権大会こと「夏の甲子園」です。開始当初は甲子園球場が存在しなかったため、豊中グラウンドでの開催。その後鳴尾運動場へ移り、甲子園大運動場(現・阪神甲子園球場)で開催されるようになったのは第10回大会以降。甲子(きのえね)の年こと、大正13年(1924)3月に開場しました。

第1回・2回大会…豊中グラウンド(現・大阪府豊中市)
第3回~9回大会…鳴尾運動場(現・兵庫県西宮市)
第10回大会~…甲子園大運動場(現・兵庫県西宮市)
※戦争による中断や進駐軍の接収により使用できなかった年を除く。

 

街とわかれて峠を目指す地点

仁淀川からの水路に立つ標石 現代の道標

清滝寺からこの場所まで徒歩約1時間で先には峠が待ち受けます

この先青龍寺へ向かうにあたり塚地峠(つかじとうげ)が待ち受けます。その峠は県道の塚地トンネル手前から分岐していて、歩きお遍路さんはそこへ差し掛かった時に峠へ行くかトンネルを経由するかの選択を迫られることになります。
難易度や所要時間の面ではトンネル経由の道が有利。どのように進行しようと同じ四国遍路ですので、季節や天候によって道を選ばれるようになさってください。

 

【「仁淀川からの水路に立つ標石」 地図】

この記事を書いた人

野瀬 照山
四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。