徳島県上板町の6番札所安楽寺。竜宮城のような入口山門が印象的な寺院ですが、こちらの山門横に中務茂兵衛標石が残されています。この標石は一部補修されているのですが、それが大きな特徴となり、近隣の標石との共通項もみられます。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。 22歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は歩き遍路最多記録と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。
明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。
標石の正面に表記されている内容
<正面上部>
左(指差し)
十楽寺
大師像
大きく左を差す凸の指差しと凹の浮彫の弘法大師像が特徴なのは、安楽寺手前約800mの地点にある標石と同じ。上部は破損したのか別の石を用いて補修されています。その点は別の面で考察したいと思います。
<正面下部>
讃岐國高松通町一丁目
施主 稲垣繁●
讃岐國高松通町(さぬきのくにたかまつとおりまち)→現香川県高松市通町
現在のことでん(高松琴平電気鉄道)・片原町駅(かたはらまちえき)の東側に広がる街区で、高松城(現玉藻公園)は徒歩圏内。こちらの標石では「丁目」がついていますが、現在は「通町」の後にすぐ番地がくる。
通町は昭和20年(1945)7月の高松空襲で罹災。町内ほぼ全ての建物を焼失する甚大な被害を受けました。その後、戦災復興土地区画整理事業により街路の拡幅等が行われた際に地番整理がされ、通町の「●丁目」は消滅しています。
標石の左面・裏面に表記されている内容
通常は各面を一つずつ考察していくのですが、こちらの標石は変則的で左面から裏面へ指差しが延びています。
<左面から裏面上部>
左(指差し)
安楽寺
袖がある立派な指差しなのはもちろん、正面の大師像が凹の浮彫、当面は凸。大変造形に凝った標石であることがわかります。
けれどやはり目が行くのが、指差しが左面から裏面へ跨る事。こちらの標石の特徴を挙げるとしたら、この部分に尽きます。
他にあまり例がない形なので判別が難しいところですが、より詳しい知人にアドバイスを仰いだところ、上部が丸ごと補修されて袖付き指差しごと挿げ替えられた、とのことでした。
左面袖の下「安楽寺」は元々のもの。裏面指差しの下の「安楽寺」は補修した際に刻まれたもの。それぞれ石が白く見えますが、これは指差しの浮き彫りによって他の部分より雨が当たりにくくなっているので、劣化の度合いが緩やかなのだそうです。
こちらの指差しは、元々の標石に表現されたものであることがわかります。後年石を補修する際に、この正面の指差しに対応する形で左面・裏面に跨るダイナミックな袖付き指差しを造って乗せたといえそうです。
<左面下部>
一百八十一度目為供養建之
周防國大島郡椋野村
施主 中司茂兵衛義教
中務茂兵衛181度目(279度中)の四国遍路は自身57歳の時。
巡拝回数のところ、「臺百(だいひゃく)」「壱百(いちひゃく)」はあらゆる標石で見ることができますが、頭文字に「一百」となっているのはあまり見かけません。
<裏面下部>
明治三四年弐月吉辰 ※変換できない字あり
明治34年は西暦1901年。20世紀最初の年です。
同年同月、福岡県で日本の重化学工業の礎となった官営八幡製鉄所が操業を開始しています。
6番札所安楽寺から5番札所地蔵寺方面に約800m進んだところ(=逆)にある標石が同年のもので、右面が存在しない点が共通。場所・年代柄、例えば職人さんが共通したり関連性がありそうです。
安楽寺800m地点の石…7月で183度
安楽寺前の石…2月で181度
約半年でおおよそ2周加算。本当にただひたすら四国遍路を回り続けていたことがわかります。
※本記事で共通項がある標石として紹介している安楽寺手前800mの標石は、以下リンクの記事でご紹介しています。
【5番札所地蔵寺→6番札所安楽寺】さとうきび畑が広がる街に残された中務茂兵衛標石
【「6番札所安楽寺門前の中務茂兵衛標石」 地図】