83番札所一宮寺の門前に、四国中にたくさんの標石を建立した中務茂兵衛の建立開始当初の標石がのこされています。後年は全国各地のいろいろな人物から寄進を集めた茂兵衛さんですが、この標石の施主は自身の地元の人物です。
中務茂兵衛さんメモ
明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し回られた方で、山口県の周防大島出身。
18歳の頃に周防大島を離れ、一度も故郷に戻ることなく四国を回る事279回。
バスや自家用車が普及している時代ではないので、徒歩での記録。
回った回数は歩き遍路では最多記録と名高い。
明治19年(1886)、自身42歳・88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。
その標石は四国各地で確認されているだけで243基。
札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。
—– こちらの記事に登場する読み方が難しい単語
周防大島(すおうおおしま)
椋野(むくの)
玖珂(くが)
----- こちらの記事に登場する主な登場人物
中務茂兵衛(なかつかさもへえ / 1845~1922) … ↑上記参照
83番札所一宮寺山門前の標石
私が運営する香川県高松市のゲストハウスそらうみに、遍路の鉄人・中務茂兵衛さんの出身地である山口県周防大島からゲストさんが来られました。四国遍路情報サイト「四国遍路」の茂兵衛さんの記事をご覧いただいたことをきっかけに、郷土偉人の取材を兼ねての宿泊でした。
宿泊翌朝、ゲストハウスそらうみから徒歩5分の83番札所一宮寺へ参拝と中務茂兵衛標石の取材に向かいました。
標石左面には袖付き指差しに、屋嶌寺道(屋島寺道)の刻字。
八十八度目供養為
周防國大島郡椋野村
願主 中務茂兵衛 建立
標石の建立を始めたのは 自身42歳、八十八回目の巡拝を記念してのこととされる。
すなわちこちらに残されている標石は、初期に建てた10基余りの標石の一つなのです。
その費用を近郷の者にお願いした…?
一宮寺の参道から見える部分には、施主(スポンサー)の情報が刻まれています。
周防國玖珂郡中津村
木村(本村?)
多くの刻字が消えかかっていて判別が困難ですが、後年は全国各地の篤志家から広く寄進を受けた茂兵衛さんにあって、こちらの標石は珍しく自身の地元の人物の寄進によるもの。
ここからは私個人の想像ですが、
百度目の四国遍路あたりから "生き仏" と崇められた茂兵衛さんだが、標石の建立を思い立った八十八度目の頃はまだ無名の存在。
思うようにスポンサーが集まらなかったのかどうか、近郷の知人にお願いしたのではないだろうか。
玖珂郡中津村は 現在の岩国市中津町。
岩国錦帯橋空港・米軍海兵隊岩国基地が置かれている場所の近く。
茂兵衛さんの地元・周防大島からは遠くない。
刻字の劣化具合からも、良質の石を手配する費用が足らなかったか、石の知識が不足していて材質の選定が甘かったか。
もっとも標石初期のものなので、後年の標石と比べると年数による経年劣化は否めないところではある。
刻字のデザイン・フォントに関しても、後年広く見られるものとは異なる。
ここでの指差しは袖を含め窪んでいるが、以降は浮き出るデザインが多い。
後年に建立された標石の状態と比較すると、この標石で起きている様々な不具合は解消されていることから、こちらの標石は実験台となったのかもしれません。
もしくは、ずっと継続することで生き仏と呼ばれるような高名な人物となり、より広く寄進が集まるようになると共に次第に良質の石や敏腕の職人さんも集まっていった…
昔のことで書物などに乏しく、茂兵衛さんがどのような想いで巡拝・標石を建立したのかはわかりません。
ただ、巡拝279回と現在に残されている243基の標石は、この先もずっと語り継がれる遍路史上最高の偉業。
遍路道中で標石を見かけたら、先人の残した遺跡(ゆいせき)に思いを寄せてみてはいかがでしょう。
※一宮寺門前の標石に関しては以下の動画でも解説していますので、ぜひご覧ください。
※83番札所一宮寺周辺の標石に関しては、以下リンクの記事でもご紹介しています。
【83番札所一宮寺西の路傍】中務茂兵衛の札所順とは異なる行先を示す標石
【「83番札所一宮寺門前の標石」 地図】