大きな木が印象的な67番札所大興寺の山門の向かいの田んぼ脇に、地蔵菩薩とともに中務茂兵衛標石が2つ並んで立っています。66番札所雲辺寺から大興寺に向かう道中に立っていた標石がここに移設されたと考えられます。
中務茂兵衛義教
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現・山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石正面に表記されている内容
<南石・正面>
右
小松尾二丁
<北石・正面>
右(指差し)
〇〇
〇〇
小松尾寺→67番札所大興寺
現代で発行されている書籍などは67番札所は「大興寺(だいこうじ)」の名称で統一されていますが、平成時代に入る頃まではガイドブックや道路標識などで「小松尾寺(こまつおじ)」の名称で掲載されていました。旧称というよりは地域で親しまれている愛称のような感があります。現在も小松尾の名称を山号「小松尾山」に見ることができます。
二丁→約216m ※1丁=約109m
元々南石(右)は67番札所大興寺から約200m離れた位置に建てられていたことがわかります。
北石(左)については僅かに右を差す指が見える程度で全体的に判別が難しく、建立年度的には南石(左)のほうが10年くらい新しいのですが、状態は南石(右)が良好です。
標石右面に表記されている内容
<南石・右面>
左(指差し)
壹百度目為供養建之
周防國大島郡椋野村
施主 中務茂兵衛義教
南石は四国四県に広く存在する100度目のキリ番標石。中務茂兵衛「100度目/279度中」の四国遍路は自身44歳の時のものになります。
一番最初の88度目の標石と、100度目の標石はまとまった本数が存在するように思います。(判明している範囲で)全ての中務茂兵衛標石の調査が完了した暁には、巡拝回数や施主分布等の一覧を制作したいと考えております。それにはまだまだたくさんの標石の調査が残っています。
<北石・右面上部>
左
雲邊寺
雲邊寺→66番札所雲辺寺
南石(右)の行先について、どこのことを示しているのか字こそありませんがおそらく66番札所雲辺寺を指しているものと思われます。
北石(左)には「雲邊寺」とはっきりと記載があります。
「邊」の字は現在では「辺」の字に相当しますが、厳密には同一のものではありません。これについては昭和21年(1946年)に開催された国語審議会において漢字を公式化するにあたり統合が行われたことに由来します。それまでは漢字の数が多い、というよりいくつ存在するのかわからない、人によってはこのように書く、といった具合でした。戦前の新聞を見る機会があると、言い回しもですが、今では見る機会がない漢字が多数登場するあれです。
国語審議会では漢字の公式認定と数を減らす目的があったので、
邊…あたり、有る方向、近く など
辺…あたり、近く、果て など
意味が近く字も似てるといえば似てるし、統一してしまおう!
となったわけです。
そこで制定された漢字は「常用漢字」と呼ばれます。常用漢字は永遠のものではなく、国語審議会自体が定期的に行われるものなので、常用漢字が外されて常用外漢字になったり、その逆もあります。
「辺」「邊」を例に取ると、どちらの字も「あたり」「ヘン」と読むことができますが、辺には果てという意味もあるので両者が全く同じことを意味する字ではありません。「遍路」という単語の始まりは「未開の路を行く」すなわち「辺路(へじ、へち、へんろ)」と書かれていたものが、四国を遍く(あまねく)巡礼することから「遍」や「徧」の字に変わっていったという歴史があります。
※漢字表記の変遷に関しては、以下リンクの記事の香川県三豊市にのこされている中務茂兵衛標石の「豫」と「予」の表記の考察もしていますので、ぜひこちらもご覧ください。
【70番札所本山寺→71番札所弥谷寺】旧道沿いに残されている中務茂兵衛標石から考察する「豫」と「予」
現代で「邊」の字を見る機会はその多くが人名で「わたなべ」さんが代表例ですね。
わたなべの漢字には「渡辺」「渡邊」「渡邉」「渡部」など様々な表記があり、「邊」や「邉」のつくりが自じゃなく白であったり様々で複雑です。一説にはわたなべさんの漢字は58種類の書き方が存在するのだとか。
その理由については諸説存在するのでしょうが、明治4年(1871年)に制定された戸籍法が関係している説が有力です。名字登録の際にA町の担当者は「辺」と書いた。B町の担当者は「邊」と書いた。その時代は国が定めた常用漢字の概念が存在しないので、担当者によってバラバラだったことでしょう。もちろん手書きなので担当者の字の癖がそのまま登録された例もあったでしょうし、白を自と間違えて登録されたような例も考えられます。人同士のことなので聞き取り間違いや、この土地ではその字はこのように書くといった地域の慣習、義務教育の時代ではないので国民側も字が書けないという人も存在したはずなど、様々な事情が想像できます。同様の例が「斎藤」さんにもいえますが、それが現在に至っているようです。
「渡辺」の姓自体は山梨県が最多で、他には静岡県・新潟県あたりが上位のようですが、一説には「わたなべ」と読む人が一番多いのは愛媛県という見方があります。確かに愛媛県には「渡辺」の他に「渡部」さんもよく見かけます。
<北石・右面下部>
壹百七十九度目為供養
周防國大島郡椋埜村住
願主 中司茂兵衛義教
中務茂兵衛「179度目/279度中」の四国遍路は自身56歳の時のものになります。
標石左面に表記されている内容
<南石・左面>
明治廿十一年五月吉辰
<北石・左面>
〇〇
明治21年は1888年。この標石が立っている場所は現在は香川県ですが、標石が建てられた同年5月はまだ香川県が存在せず、67番札所大興寺は愛媛県豊田郡辻村の管轄でした。
1878年(明治11年)12月 郡区町村編制法施行により豊田郡発足 ※愛媛県下
1888年(明治21年)12月 香川県発足
1890年(明治23年)2月 町村制施行により豊田郡辻村発足
1899年(明治32年)4月 豊田郡と三野郡の合併により三豊郡辻村になる
1955年(昭和30年)4月 新設合併により三豊郡山本村
1957年(昭和32年)11月 町制施行により三豊郡山本町
2006年(平成18年)1月 新設合併により三豊市
香川県西部の自治体は、
三豊市…旧三野郡
観音寺市…旧豊田郡
概ねこの範囲ですが、辻村については旧豊田郡なので観音寺市寄りの存在でありながら現在は三豊市になっています。
※豊田郡の表記がある中務茂兵衛標石を以下リンクの記事でご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。
【65番札所三角寺→66番札所雲辺寺】遠く土佐國まで続く旧土佐街道沿いの中務茂兵衛標石
標石メモ
<南石>
発見し易さ ★★★★★
文字の判別 ★★★☆☆
状態 ★★★☆☆
総評:67番札所大興寺門前にあり見つけるのが容易。字の判別は見える部分はまずまずの良さですが、施主を表す部分が消えてしまっているように感じられる。訪問時の日当たりの関係で裏面が全く見えなかったのですが、裏面に記載があるかもしれません。
<北石>
発見し易さ ★★★★★
文字の判別 ★★☆☆☆
状態 ★★☆☆☆
総評:67番札所大興寺門前にあり見つけるのが容易。隣の南石より約10年新しいにも関わらず字の彫りが浅いためか判別はこちらの石のほうが難しい。また両者が近すぎて(南石の左面と北石の右面など)写真に収めるのが困難。
※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません
※67番札所大興寺から68番札所神恵院の遍路道中にある、この標石と同様に「小松尾寺」の表記がされている中務茂兵衛標石を、以下リンクの記事でご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。
【67番札所大興寺→68番札所神恵院】珍しく「神恵院」と表記されている中務茂兵衛標石
【67番札所大興寺→68番札所神恵院】遍路道より街道の情報が目立つ中務茂兵衛標石
【67番札所大興寺→68番札所神恵院】小松尾寺とこんぴらさんが相対する中務茂兵衛標石
【67番札所大興寺→68番札所神恵院】佐賀県に現存する寺院名が記された中務茂兵衛標石
【「67番札所大興寺門前に2本並ぶ中務茂兵衛標石」 地図】