【67番札所大興寺→68番札所神恵院】遍路道より街道の情報が目立つ中務茂兵衛標石

67番札所大興寺を出発すると国道377号が新旧道にわかれる場所があります。旧道に分岐して進むと「いよ道」の目立つ表記と、次の札所は民家と民家の路地を進むことを示す中務茂兵衛標石が残されています。

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いよ道の表記が目立つ中務茂兵衛標石

中務茂兵衛標石は主に「遍路道」を表すものだが、こちらの標石に関しては「伊予街道」の表記のほうが目立つ。

 

中務茂兵衛義教

中務茂兵衛 写真

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現・山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。

 

標石正面に表記されている内容

いよ道の表記が目立つ中務茂兵衛標石_正面

こちらの標石の面に関しては、当面が正面といいきれないイレギュラーパターン。


<正面>
右(袖付き指差し)
壹百度目為供養
周防國大島郡椋埜村
願主 中務茂兵衛建之


通常は茂兵衛さんの情報が正面にくることはないので、こちらの標石で最も目立つ「いよ道」と書かれている面が正面かもしれません。ですが、方角は袖付き指差しだけで場所の表記は見当たりません。石が立っている位置関係でいうと次は68番札所神恵院になります。

※「何を材料に正面と同定しているのですか?」
順打ちで次の札所が書かれている面と情報の示し方です。すなわち「右」「左」だけじゃなく指差しがあるかどうか、もっと言えば、浮彫や袖付きなどで各面の中で最も豪華に表されていれば、そこが正面と同定しています。他の同定材料としては、順打ちでその石がある場所へやってきて一番最初に目に入る面を正面と同定することもあります。ただしこれは道路整備などの事情で、再設置の際に場所や置き方が変わっている場合があるので、それほど強調材料ではないと思っています。

中務茂兵衛「100度目/279度中」の四国遍路は自身44歳の時のものになります。

 

標石右面に表記されている内容

いよ道の表記が目立つ中務茂兵衛標石_右面

「尾張國名古屋市」となれば、あの人物の寄進であるかどうか、なのですが…


<右面>

小松尾寺
尾張國名古屋市
願主 〇〇

小松尾寺→67番札所大興寺


現代で発行されている書籍などは67番札所は「大興寺(だいこうじ)」の名称で統一されていますが、平成時代に入る頃まではガイドブックや道路標識などでは「小松尾寺(こまつおじ)」の名称で掲載されていました。旧称というよりは地域で親しまれている愛称のような感があります。現在も小松尾の名称を山号「小松尾山」に見ることができます。

「尾張國名古屋市」となれば、茂兵衛さんと同時期に日本全国の社寺に寄進を行っていた伊藤萬蔵氏が思い浮かびます。姓名部分ににんべんが見えるような気がするのですが、字の彫りが浅く決定的な証拠にはなりません。確証を持てない話題を広げるのはあまり良くはないですが、

中務茂兵衛…1845年4月30日-1922年2月14日(77歳)
伊藤萬蔵…1833年生年月日不詳-1927年1月28日(94歳)

この時代の人々の平均寿命を考えると、茂兵衛さんは長生きの部類に入りますが、伊藤萬蔵さんはさらにその上を行き長寿を全うしたことがわかります。
※伊藤萬蔵に関しては、以下リンクの記事で詳しくご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。

【伊藤萬蔵】全国の社寺に広く寄進を行った人物のおはなし

【28番札所大日寺→29番札所国分寺】伊藤萬蔵×中務茂兵衛合作の標石

 

標石左面に表記されている内容

いよ道の表記が目立つ中務茂兵衛標石_左面

標石、狭い幅の未舗装路、周辺の建物の雰囲気が相まって古道の雰囲気満点だが、すぐ先で国道377号に合流して道は途切れてしまう。


<左面>

いよ道


標石が立っている東西の道の原型は「金毘羅街道(こんぴらかいどう)」です。伊予・土佐から続いてきて、この地点から東に約12km進むと「金刀比羅宮(ことひらぐう)」があります。金毘羅街道はかつて「四国の道は全てこんぴらにつながっている」とまでいわれ、古くから整備が行われてきました。中でも、

高松街道
丸亀街道
多度津街道
阿波街道
伊予土佐街道

の五つは「金毘羅五街道」と呼ばれ、特に往来が多い道でした。旧街道の名称ルールとして、自分がどちらへ向かっているかで呼び名が決まります。すなわち、この場所を高知へ向かっているなら土佐街道、土佐からこんぴらさんを目指しているのであれば金毘羅街道ということになります。
伊予土佐街道は出発地点はそれぞれ別ですが、川之江(現・愛媛県四国中央市)で両者が合流して、こんぴらさんに続くので、両者は合わせて呼ばれます。
※伊予街道と土佐街道が合流する地点近くにも中務茂兵衛標石がのこされており、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【65番札所三角寺→66番札所雲辺寺】遠く土佐國まで続く旧土佐街道沿いの中務茂兵衛標石

また、お遍路道中で越える愛媛県と徳島県の県境である「境目峠(さかいめとうげ)」の街道としての名称は、徳島を目指しているのであれば阿波街道、松山を目指しているのであれば伊予街道で、金毘羅五街道にも同一名称の道が存在しますが、それらと同一の道ではありません。

遍路道と金毘羅街道の関わりですが、私のイメージとしては出たり入ったりする箇所が多数存在します。67番札所大興寺周辺が特にそんな感じです。近いところでいえば、愛媛県の西条市-新居浜市-四国中央市の遍路道は多くの箇所で金毘羅街道と遍路道が重複しています。

遠く離れた所で「そこ実は金毘羅街道ですよ」という場所でパッと思いつくのが、高知県の29番札所国分寺の周辺で、この交通の要衝にも中務茂兵衛標石がのこされています。
※高知県南国市岡豊の交通の要衝にのこされている中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。

【29番札所国分寺→30番札所善楽寺】古くからの交通の要衝・岡豊に建てられた中務茂兵衛標石

この標石がある道を讃岐國へ向かっているのであれば「金毘羅街道」
その道を讃岐國から土佐國へ向かってきたのであれば「土佐街道」
です。

土佐街道は、阿波から土佐へ向かう道も土佐街道と呼びますが、

阿波→土佐…太平洋沿い…別名:土佐浜街道、土佐東街道
讃岐→土佐…四国山地越え…別名:土佐山街道、土佐北街道 ※金毘羅街道

道の距離や性格が全く異なるので、それぞれに地形や方角を付けて区別して呼んだりもします。土佐浜街道は23番札所薬王寺の前の道がそうですし、室戸岬を回って高知城下を目指す道なので多くの部分で遍路道と重複しています。お遍路さんにとって縁がある街道です。

 

標石裏面に表記されている内容

いよ道の表記が目立つ中務茂兵衛標石_裏面

すぐ横に反射板があって影ができたり接写できないなどの条件があるが、標石の保護に寄与しているともある意味とらえられる。


<裏面>
明治二十一年五月吉辰


100度目の標石といえば明治21年。西暦1888年で、石が建てられた同年5月は香川県がまだ存在しておらず、この場所の住所は愛媛県豊田郡豊田村でした。

 

標石メモ

発見し易さ ★★★☆☆
文字の判別 ★★★☆☆
状態    ★★★☆☆
総評:旧伊予土佐街道(金毘羅街道)にあり、現代のお遍路さんがよく通る遍路道沿いではないので、意図して来なければ発見することができない。正面・右面は行先や施主情報が記されているように思うが、字の彫りが浅く現在では判別が難しくなっているのが残念な点。

※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません

 

※67番札所大興寺門前および大興寺から68番札所神恵院の遍路道中にある、この標石と同様に「小松尾寺」の表記がされている中務茂兵衛標石を、以下リンクの記事でご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。

【67番大興寺札所門前】2本並んで立っている移設された中務茂兵衛標石

【67番札所大興寺→68番札所神恵院】珍しく「神恵院」と表記されている中務茂兵衛標石

【67番札所大興寺→68番札所神恵院】小松尾寺とこんぴらさんが相対する中務茂兵衛標石

【67番札所大興寺→68番札所神恵院】佐賀県に現存する寺院名が記された中務茂兵衛標石

 

【「いよ道の表記が目立つ中務茂兵衛標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。