香川県には夏至の日の出と冬至の入り日方向を結ぶ「二至」のラインが重要な意味をもっていることがわかってきました。今回は、香川県の東部、87番札所長尾寺周辺に見られる同様の二至を指し示すレイラインを見ていきます。
レイラインに基づく四国の都市配置
ところで本題に入る前に、最近発見した四国の大きなレイラインをご紹介します。
この図をよく見てください。
これは剣山を中心に東西と南北を結ぶラインと、それに夏至の日の出と冬至の入り日、冬至の日の出と夏至の入り日の二つの二至を結ぶラインを示しています。
ここで注目してほしいのは、剣山から見て真北には高松市(屋島北嶺)があり、夏至の日の出方向には徳島市、冬至の入り日方向には高知市、そして西には松山市が、それぞれ正確に位置していることです。
剣山は、山岳信仰において四国随一の聖山として信仰されてきました。
またこの山には数々の伝説が伝えられています。
その伝説の中には、空海の秘宝が隠されているというものから、ユダヤの失われたアークがあるといった荒唐無稽な話までありますが、それはこの山が秘めた神秘性を誰もが認めてきた証ともいえます。
その剣山を中心に、二至二分の太陽の出没方向に四国四県の県庁所在地がぴったり位置しているのは偶然でしょうか。
さらに不思議なのは、東西方向のラインを伸ばしていくと、東は熊野本宮大社に行き着き、西は九州の宗像大社に当たります。
また徳島市の方に伸びる夏至の日の出ラインは、その先で奈良(平城京)を通り、名古屋まで行き着くのです。
ここまで含めて俯瞰してみると、何か壮大な意図を想像したくなります。
四国四県の県庁所在地の歴史を見ると、高松城創建1588年、松山城1602年、高知城1587年、徳島城1585年と、いずれも戦国時代末期から江戸時代初めにかけて開かれているのがわかります。
江戸が開府された後、江戸城を守るために、様々な結界が張られたことは有名ですが、四国四市に城が築かれたのも、ちょうど同じような時期に当たります。
いったい誰がこうしたグランドプランを考えたのか、引き続き調べていきたいと思います。
長尾寺(87番札所)
さて、すこし横道に逸れましたが、ここからは本題の香川県の東部「東讃地域」の二至を指すレイラインを見ていきましょう。
さぬき市にある四国八十八ヶ所霊場87番札所である長尾寺(ながおじ)は、境内に静御前の剃髪塚があることでも有名です。
静御前の母親の故郷が長尾寺の近くで、その一党は水軍だったと伝えられています。
その縁で、源平合戦の屋島の戦いの折には彼らが義経軍に加勢し、源氏方を勝利に導いたとも伝えられています。
義経が頼朝によって誅された後、静御前は母の故郷であるこの地に住み、夫義経の菩提を弔うために剃髪したのがこの長尾寺で、その髪を祀ったのが髪塚です。
また静御前の位牌も本堂の左脇陣に安置されています。
この長尾寺は、大鉢山の麓にありますが、長尾寺から見ると大鉢山の方向は夏至の日の出の方向に当たり、讃岐の基本レイラインに一致するのです。
長尾寺は、天平11年(739年)に行基によって開基されたと伝えられています。
さらに空海が渡唐前に滞在し、年頭7日目の夜に護摩符を丘の上より投げて新年を祝ったと伝えられ、毎年1月7日の「福奪い」として今に伝わっています。
そのように空海に所縁の深い寺院ですが、江戸時代初期に天海によって天台宗に改められました。
天海といえば、徳川家康を「東照大権現」として日光東照宮に祀って江戸の守護神としたり、平将門の七つのパーツを分祀して江戸城の北に北斗七星の結界を描くように配置した陰陽道的怪僧として知られますが、この長尾寺にも結界的な要素が天海によって持ち込まれているのかもしれません。
宇佐神社-弁天島ライン
長尾寺から南東へ2kmほどのところに宇佐神宮があります。
ここは旧長尾郷の総鎮守で、承平6年(936年)8月宇佐神宮より勧請された由緒のある神社です。
一万坪を超える広大な境内には、古墳時代後期の円墳が数多く群集して宇佐八幡神社古墳群を形成しています。
室町時代には、足利尊氏に仕えた細川繁氏が尊崇し、正平6年(1351年)に社殿を造営。
正平19年(1364年)には三代将軍足利義満の下で管領となった細川頼之が八幡池(宮池)を築造して寺社領用水としました。
宮池は、宇佐神社の正面にあり、池の中央には中土手で結ばれる亀島があります。
この真っ直ぐ伸びる中土手がまた、夏至の日の出と冬至の入り日を結ぶ二至ラインに沿っているのです。
この地方の歴史を記した『大川郡誌』によれば、明治時代に亀島の神事場の発掘で金環、銀環、土器、刀剣、鏃が出土したとあり、亀島が古い祭祀場であったことがわかります。
二至を指す中土手は、室町時代に宮池が掘削されたときに築かれたものか、それ以前からあったものかは定かではありませんが、亀島が古墳時代の祭祀場であったとすれば、二至を示す中土手は古代からあったか、あるいは二至を指すほかの目印があって、それを活かして中土手が築かれたと考えられます。
今では宇佐神社と亀島を結ぶこの中土手は桜の名所として知らていますが、夏至には宇佐神社から見ると亀島の背後から日が昇って、中土手を伝って社殿に太陽の光が達するのが見られ、また冬至には、逆に亀島のほうから中土手の先の宇佐神社の杜に日が沈んでいく光景が見られるはずです。
さらに、このラインを延長していくと、産宮(さんのみや)神社を通り、弁天島に達します。
産宮神社は、神功皇后が三韓征伐から凱旋の途次にここに立ち寄ったことを記念して祀ったと伝えられています。
神功皇后は腹に子を宿したまま勇ましく戦い、その後無事出産したという伝説から安産の神とされています。
亀鶴公園から産宮神社のほうから見ると、夏至の日の出は雨滝山と火山の間の谷間から昇ってきます。
その先に弁天島があります。
谷間から昇る太陽を拝するのは、ちょうど女性の膝間から子供が生まれる様子に似ていることから、生命の誕生とその成長、さらに五穀豊穣を願うという意味がありました。
山間の向こうにある島を弁天島としたのは、そこが太陽の種子を宿しているといった意味で考えられていたのでしょう。
宇佐神社と弁天島を結んだレイラインが以下の図です。
俯瞰してみると、雨滝山と火山の谷間の先に弁天島が位置しているのがわかります。
また、宇佐神社と産宮神社の間に「寒川」という地名が見られますが、これは相模国(神奈川県)の寒川からの移住者が住んだことに由来するといわれています。
寒川には、相模一宮の寒川神社があり、これがやはり相模国の聖山である大山と二至で結ばれる位置関係にあるので、もしかすると寒川からの移住者が、このさぬき市の二至ラインにも関係しているのかもしれません。
このように、香川県東部の東讃地域には夏至の日の出と冬至の入り日方向のレイラインを意識した史跡があります。
地域で重要な役割を果たしてきた87番札所長尾寺との関係を含め、このラインの意味をさらに深く探求していきます。