【繁藤駅】四国最高所に位置する鉄道駅

四国の中で最も高い場所にある鉄道駅がJR土讃線・繁藤駅です。建造から100年以上経過している駅舎や、駅構内のプラットホームや跨線橋の景観から、長い歴史を感じることができます。

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繁藤駅

繁藤駅の標高は347mで、東京タワーの高さが333mなので、それとほぼ同じ高さに繁藤駅が位置していることになります。

※繁藤駅の歴史に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【繁藤駅】歌を手掛かりに当時の情景を想像することができる鉄道路線

 

高知県中央部で鉄道駅が近い四国八十八ヶ所霊場の札所

繁藤駅_路線図

繁藤駅は四国八十八ヶ所霊場巡礼の遍路道から離れているため、遍路道中で耳にする地名駅名ではありませんし、近くに観光名所があるわけでもないので、現代では地元の方々による利用が少しだけ存在する駅です。

繁藤駅からそれほど遠くない後免や高知付近では、四国八十八ヶ所霊場巡礼で活用することができる駅があります。


入明/土讃線…30番札所奥之院安楽寺
土佐一宮/土讃線…30番札所善楽寺、土佐神社
後免/土讃線…29番札所国分寺


こちらの路線図には網羅されていませんが、後免駅で分岐する土佐くろしお鉄道阿佐線(ごめんなはり線)の先では以下の札所にアクセスできます。


野市駅/ごめんなはり線…28番札所大日寺
唐浜駅/ごめんなはり線…27番札所神峯寺


四国の鉄道はお遍路さんの輸送を主目的として敷設されたわけではないので、駅近に札所があるのは珍しいケースといえます。高知県内の遍路道中は札所が数十km離れているところが多いので、寺から寺へ向かって鉄道を利用するというよりは、その長大な札所間距離を鉄道の助けを借りながら上手に回るのが、有効的な活用方法であるように思います。
そのためには鉄道運賃が必要になりますが、時間・体力・旅費の温存になります。例えば50kmを歩くとしたら時間が1日半くらい掛かるわけで、そこには運賃より高額な宿泊費用が1泊分多く必要になります。

繁藤駅_時刻表

四国のローカル線は運転本数がとても少なく、繁藤駅の場合は一日5往復で7時間以上列車の発着が無い時間帯があり、ちなみに特急列車はおおよそ1時間に1往復運転されているので、繁藤駅で列車の走行を見ることができる機会はそれなりにあります。

私はローカル鉄道が好きなので、初めて歩き遍路をしたときから鉄道を利用することがありましたが、日中はがんばって歩く、乗車するなら日没後、そのようなマイルールを作って鉄道の力を借りていました。
野宿メインの旅だったので、その点では山里のほうが選択肢は多いのですが、そのような場所は食べ物に困ります。夕食に困るということは、翌朝の朝食も困ります。暗くなってから列車に乗って食糧を入手できる商店がありそうな場所まで移動することで、翌日に良いスタートが切れた覚えがあります。
私が鉄道を利用したのは日没後でしたが、昨今の気候を考えると午前のまだ涼しい時間は歩いて、日中の暑さが酷い時間帯は鉄道利用という作戦もありですね。そのとき歩いている所の横を鉄道が走っていて、便数が少ない列車がタイミング良く来ることはなかなか考えにくいのですが、それが叶うときは避暑と休憩としてとても有効だと考えます。

 

繁藤駅プラットホームに路線の歴史を見る

繁藤駅_プラットホーム

古い鉄道路線はプラットホームが切石や煉瓦積みのように歴史が感じられたり、時代の変化に合わせて増床されていることがありますが、繁藤駅の場合は昭和初期に建設されたこともあり、汎用的なコンクリート製のプラットホームです。

繁藤駅のプラットホームで何か特徴を、と思って探しているとこの部分を発見しました。


2番線高知土佐佐賀方面のりば


と文字がペイントされています。知名度で考えると高知はわかる気がしますが、その点では何故に土佐佐賀が表記されているのか、一見すると不思議です。そこを考察してみたいと思います。

土佐佐賀とは、現在の幡多郡黒潮町で旧佐賀町のエリアに位置している土佐佐賀駅のことです。鰹の一本釣り船団が母港にしていることで有名な漁業の街ですね。

土讃線はいくつも待ち受ける険しい地形を前に延伸工事がスムーズに進まず、そうこうしているうちに戦争で工事が中断される不運もあり、多度津-窪川の198.7kmが全通したのは第二次世界大戦後の昭和26年(1951)11月のことでした。
※工事完成をもって全通した久礼坂にある影野駅に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【JR土讃線・影野駅】久礼の急坂を克服した跡を見ることができる駅

高知県は窪川から先に中村(現・四万十市)という高知県第三位の大きな街があり、鉄道敷設の計画が存在しましたが、土讃線は窪川に達したところで完成とされました。土讃線は予讃線と双璧を成す四国鉄道網の屋台骨なので、完成したと早くいいたい面があったのでしょうね(他にも理由は様々考えられます)。


昭和26年(1951)11月 土讃線全通
昭和38年(1963)12月 中村線窪川-土佐佐賀 開業
昭和45年(1970)10月 土佐佐賀-中村 開業 ※中村線全通
昭和63年(1988)4月 中村線を土佐くろしお鉄道に移管


結果的に、土讃線が全通してから中村まで鉄道が到達するまで19年という長い時間を要しましたが、中村まで未開通だった期間では土佐佐賀駅が終着駅だった時代があります。これこそが繁藤駅のプラットホームに「土佐佐賀」とペイントされている理由ですね。制作者は「こちらのプラットホームを発着する列車の行先は、路線の代表駅である高知駅や、その終着駅の土佐佐賀駅方面ですよ」という意味を込めて描いたのだと想像することができます。また制作時期は土佐佐賀駅が高知県の鉄道の終点だった時期ということがわかります。

お遍路をしていると、なぜ高知県の鉄道はJRだったりくろしお鉄道だったり、運行会社が変わるのだろうと疑問に思われることがあると思います。
沿線人口が少なく収支的にJR四国では担い切れなくて、不採算な路線は高知県や鉄道沿線の自治体、一般企業等が出資して運営せざるを得ないようです。これから先はより厳しい経営が待っています。
もう少し掘り下げて考察するならば、東部のごめんなはり線は本線から枝わかれと言う意味で仕方ない面がありますが、一本の線でつながる西部は土讃線の延伸として建設されていたら、現在のように運行会社は変わらなかったかもしれませんね。その点では、始点の高松から末端の宇和島まで一本の路線として建設された予讃線とは、命運がわかれた感があります。

歩き遍路をしていると、横を鉄道が走っている安心感はとても大きいと思います。鉄道を活用しながら歩き遍路をすることは、ローカル線応援という意味合いでたいへん有効だと思います。

※プラットホームに関して考察した蔵本駅を以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【蔵本駅】長いプラットホームに秘められた歴史

 

駅舎更新の波が繁藤駅にも

繁藤駅_駅舎

繁藤駅の駅舎は名駅舎というわけではありませんが開業から100年近くの年月が経過していて、解体および更新が行われることが発表され、四国各地の駅がバス停のようになってしまうことに鉄道ファンとしては寂しさを覚えます。

歴史ある駅舎がなくなっていくのは寂しいですが、近くの大田口駅では駅舎の屋根が落下する事故が発生するなど、利用者の安全面と利用実態を考えると駅舎を更新する時期がきているのでしょうね。

※駅舎が更新された讃岐財田駅に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【讃岐財田駅】箸蔵古道の登山口にある百年駅舎の更新

※繁藤駅から阿波池田方面に数駅進んだ土佐穴内-大田口の間にある日本最古の道路トラス橋である吉野川橋を以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【旧吉野川橋】原位置にある日本最古の道路トラス橋

 

未曾有の大災害が起きた天坪村

繁藤駅_線路

繁藤駅の1番線と2・3番線を繋ぐ跨線橋の上から眺めるとこのような感じで、今見えている場所のほとんどが左の山から流れて来た土砂で埋まり、停車していた列車を右側の谷間へ押し流すほどの大災害が、昭和47年(1972)7月に発生しました。

繁藤の旧自治体名である天坪村は、江戸時代に「雨坪」の字が当てられていて、雨が多い上にそれが溜まりやすい地形であることが地名の由来です。土讃線は沿線の多くが多雨地帯のため、「土惨線」と揶揄されるほど、土砂崩れによる事故や運休が昔も今もたびたび発生しています。
繁藤と聞くと、大雨が民家や鉄道を巻き込む大災害を起こした場所として記憶されている方もいらっしゃるのではないでしょうか。次項ではこの場所で発生した繁藤災害と呼ばれる大災害について触れたいと思います。

※繁藤駅周辺で発生した大災害に関して、以下リンクの記事で詳細に紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【繁藤駅】二次災害という概念が全国的に浸透するきっかけになった「繁藤災害」

 

【「繁藤駅」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。