【繁藤駅】歌を手掛かりに当時の情景を想像することができる鉄道路線

明治後期になり鉄道が日本全国に普及すると、それを歌った鉄道唱歌が大ヒットしました。そこから派生した「高知線の歌」では、当時の沿線状況をうかがい知ることができ、「繁藤駅」の例から考察してみました。

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高知線の歌

昭和7年(1932)時点で開業していた高知線の駅については、駅ごとに周辺や沿線の情景が高知線の歌として歌われています。

 

JR四国最高所の「繁藤駅」

繁藤駅_駅名標

繁藤は「しげとう」と読み、駅の標高は347mでJR四国の駅の中で最も高い場所に位置しています。

繁藤駅は、昭和5年(1930)6月21日に高知線・土佐山田-角茂谷の延伸に合わせて天坪(あまつぼ)駅の名で開業しました。高知線は現在の土讃線(どさんせん)の旧称で、天坪駅は昭和38年(1963)10月1日に現在の繁藤駅に改名されました。

繁藤駅_鉄道網地図

繁藤駅には四国の鉄道網地図が掲げてあり、こちらの路線図の中で最も標高が高い位置にあるのが土讃線の繁藤駅です。

高知の官営鉄道(現・JR)は鉄道資材揚陸の便が考慮され、高知市の西側に位置する須崎(すさき)から敷設が始められました。県都である高知までは大正13年(1924)11月に開業、翌年12月には土佐山田駅まで延伸開業しました。
※土佐山田駅に関しては、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【土佐山田駅】アンパンマンが随所に登場する鉄道駅

しかしながら土讃線はここから山に向かうため、建設に時間を要します。南北両方から延伸工事が行われ、両者のレールが繋がったのは10年後の昭和10年(1935)11月のことでした。土佐山田駅の標高が43mで(開業時は)隣の繁藤駅が347mなので、この区間は高低差が300m以上あります。
勾配を表す単位を‰(パーミル)と呼びますが、土佐山田と繁藤の区間勾配は25‰あります。25‰だと(距離)1,000m進むのに(高さ)25m上がることを意味します。もっともその25‰と言う数値も、線路がループ形状を描くなど山間を縫いながら距離を増やすことで勾配を緩くして、なんとかその数値に抑えたものです。各々の判断で敷設された私鉄はともかく、蒸気機関車が牽引することを想定して建設された官営鉄道(現JR)では、25‰という勾配は限界数値になります。
鉄道の急勾配区間はカーブを描いていたり所々にトンネルがあるので、目で見て坂の斜度を実感することが難しいのですが、この数値がどれほどのものか想像するために別の物に置き換えるとすれば、競馬の有馬記念をご覧ください。同レースが行われる中山競馬場(千葉県)のゴール前の坂が100m進むのに2.5m上がる急勾配で、25‰の10分の1の数値です。カメラワークにもよりますが、坂下から競走馬が駆け上がってくるのが見てわかるような斜度です。
※‰(パーミル)は1,000mでどれだけ上がるかを表すものなので、中山競馬場の例のように数百mだけ勾配がある場合はパーミルは用いません。斜度2.5%と表記されます

 

お遍路さんも登場する「高知線の歌」

繁藤駅_高知線の歌_車輪

明治時代に作詞された鐡道唱歌(てつどうしょうか)は、約20年間で2,000万部が出版された明治期を代表する大ヒット歌謡作品で、「高知線の歌」のような派生バージョンも、全国様々な場所・作詞家によってつくられました。


♪汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として(新橋駅)


鉄道唱歌とは、鉄道沿線の名所や名物を五七調に歌い上げたもので、こちらの歌は明治33年(1900)5月に発売された鉄道唱歌第1集東海道篇第1番の歌詞です。現代でも列車接近音などに採用している駅があるので、メロディーを耳にすると「聞いたことがある!」となる人は多いのではないかと思います。私の記憶では、北陸新幹線の列車接近メロディーが鉄道唱歌をアレンジしたものだった気がします。
作詞は四国の宇和島出身の大和田建樹(おおわだたてき/1857-1910)氏で、駅前には機関車の展示と共に同氏の歌碑が添えられています。

それまでの日本には、洛中にある通りの名前や五街道にある宿場町を順々に歌い上げるような数え歌が存在していたため、耳馴染みが良い鉄道唱歌は庶民に広く受け入れられました。そんな大ヒット作品ゆえ、第2集・第3集…と年内だけで第5集まで発売され、翌年に発売された第6集で日本の主要四島を網羅すると、続いて私鉄や前編では開通していなかった鉄道路線にも広がっていきました。そこには当時日本の統治下にあった台湾総督府鉄道や、関釜連絡船(下関-釜山)を経由して大韓帝国や南満州鉄道の鉄道、樺太の鉄道、そして第二次世界大戦で失われた沖縄県営鉄道の歌まで存在します。

繁藤駅に掲げてある「高知線の歌」は、そんな大ブームを受けて制作された替え歌のような存在です。

繁藤駅_JR土讃線車両

土佐山田駅を発車して急勾配区間に挑む現代の列車は高出力なので、坂を感じさせないくらい力強く登坂します。


♪22.これより鉄路のぼりにて 山を出でては山に入る くヾるトンネル二十三 あえぎ喘ぎて上りゆく(土佐山田駅)


例えば前述の土佐山田駅から繁藤駅への25‰の急勾配区間は、高知線の歌22番でこのように歌われています。この区間だけでトンネルが23個あり、機関車が最高出力を出して登坂するのはもちろん、乗客もその煤煙に苦しみながら峠越えに挑んでいた様子が伝わってきます。

駅にテーマソングがあるのはすごいですね。高知線の歌が作られた昭和7年(1932)時点で開業していた駅には、現在は一日数名の利用だけの無人駅であってもそれがあります。作詞者さんは駅や沿線の良いところを見つけるために、しっかり取材されたのだと思います。

土讃線(旧・高知線)沿線には四国八十八ヶ所の札所が近い駅もあり、高知線の歌にも登場します。

30番札所奥の院安楽寺

神仏分離で失われた30番札所を、いち早く復興させた安楽寺(現在は30番奥之院)は、高知線の歌では13番高知駅で登場します。


♪8.水澄みわたる仁淀川 みんなみ近く清滝寺 大黒様と土佐紙に 伊野の繁華はいつまでも(伊野駅)
♪13.杖をば曳かん安楽寺 吸江わたれば五台山 馬酔木が茂りつヽじ咲く 山を下れば竹林寺(高知駅)
♪17.二十九番国分寺  たゆることなくお遍路の 続く景色も懐かしく 春のおとづれ知らるなり(後免駅)
♪20.安芸より下りて室戸岬 潮けぶりたつ烏帽子岩 若き大師が悟りたる 遺跡に榕樹茂るなり(後免駅)


お遍路関係を歌った曲はこの4つでしょうか。
それでいくと高知駅を歌った13番が特に興味深く、札所として登場するのが安楽寺です。現在の30番札所である善楽寺の再興は昭和5年(1930)頃なので、こちらの歌が作られた時には既に存在しています。しかしながらそれまで50年以上も30番札所を安楽寺が担っていた歴史があるので、この当時に30番札所と認識されていたのは安楽寺だったのでしょうね。

吸江わたれば五台山

とありますが、吸江(ぎゅうこう)は31番札所竹林寺がある五台山南西麓の町名で、国分川の河口左岸にあります。町内に中務茂兵衛標石が残されていますが、そこは現代の遍路地図のルートに描かれていない場所です。以前それを発見した時は不思議な場所にあるなあと思い、記事にもそのように記述した記憶があるのですが、高知線の歌を聞いて納得ですね。30番が安楽寺だったとすると、歌の13番に登場する流れが当時のポピュラーな遍路道順でしょうね。思わぬところで当時のお遍路さんの動き方と、理に適った標石の位置を確認することができました。
※竹林寺の麓に遺されている中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【31番札所竹林寺近く】かつて遍路道であった五台山登山口の脇にある中務茂兵衛標石

梶ヶ森

写真中央の山が梶ヶ森(標高1,399m)で、頂上まで車道が通じていて自家用車で行く事が可能、その手前には大豊町町営の山荘梶ヶ森があり、宿泊や天文台を楽しむことができます。


♪25.河鹿の声を耳にして 仰げば高き加持ヶ森 夏はキャンプに冬スキー リュックサックの続きゆく(大杉駅)


河鹿→カジカガエル
加持ヶ森→梶ヶ森

河鹿はカジカガエルのことで、水がきれいな場所に棲息していて、清流の歌姫と呼ばれる鳴き声が美しい蛙です。
加持ヶ森は梶ヶ森のことで、その名称はお大師さまが加持祈祷を行ったことに由来します。通常山の上といえば水が乏しいイメージがありますが、梶ヶ森に関しては山頂近くに大師由来の湧水があります。

高知県の山なので「夏はキャンプ」「リュックサック」はイメージができると思うのですが、「冬スキー」とも歌われています。
私的には驚きが二つあって、南国土佐にスキー文化が伝わっていたのがまずおどろきです。確かに梶ヶ森は冬になると雪が降るのでスキーは可能ですが、この時代は道路が無いので雪が積もった登山道を歩きながら、スキー道具一式を山上へ担いで上がらないといけません。かといってスキーは冬のスポーツで明るい時間が短いでしょうから、スキーを楽しめる時間は長くありません。この時代の梶ヶ森はワイルドな山スキーができる場所として知られていたのでしょうか。
もう一つの驚きが、この25番は想像で書かれている点です。25番は大杉駅のことが歌われていますが、大杉駅の開業は昭和7年(1932)12月20日です。高知線の歌が発表されたのは昭和7年(1932)7月で、駅開業より歌のほうが早く世に出ています。高知線の開業を見越してキリが良いところまで作詞されたのでしょうか。
鉄道唱歌の本編は大ヒット作品で国民に広く知られていたと思いますが、高知線の歌はどれほど浸透したのでしょうね。ただ昭和7年(1932)は満州事変の翌年で、日本は15年戦争の真っ只中でした。スキーを含むレジャーどころではなかった気もします。
ちなみに梶ヶ森へ歩いて登るのであれば、昭和9年(1934)10月28日に開業した豊永駅が登山口近くにある駅です。

鉄道唱歌やそれから派生した高知線の歌は、駅によっては作詞当時には隆盛を極めていたが現在は営まれていない産業のことや、その当時に流行ったレジャーを鉄道を利用して楽しむ様子が歌われていたりして、当時の習俗を知ることができる大変貴重な史料となっています。

 

繁藤駅の歌に登場するマンガン鉱山

繁藤駅_鉱石の積み替え場所

繁藤駅を歌った24番で初っ端に登場する歌詞が「マンガン礦」で、昔は繁藤駅にはマンガンを運ぶ鉱山軌道が乗り入れていて、写真中央左の背丈が高い草が生えているあたりに、鉱石の積み替え場所があったようです。


♪24.マンガン礦や木材に 天坪村の名もたかく 蕨狩ゆく角茂谷 穴内川の清らかに(繁藤駅・角茂谷駅)


天坪駅(現・繁藤駅)の名で開業した当駅の名前は、駅所在地が長岡郡天坪村だったことに由来します。天坪は江戸時代は雨坪の字を書いたようで、雨がよく降ることをうかがい知ることができる地名です。
かつて、繁藤駅から遠くない場所に「穴内鉱山」というマンガンを産出する鉱山がありました。マンガンは製鉄に欠かせない鉱物です。鉄は鉄だけでは硬くならず、マンガンを入れることで鋼鉄になります。ゆえに戦時中は大砲など兵器を製造するためには欠かせない軍需鉱物でした。穴内鉱山に眠るマンガン鉱床は国内屈指の規模で、戦前の最盛期には国内産出量の60%をまかなっていたようです。
その豊富なマンガンを大量かつ効率良く輸送するために敷設されたのが、石原満俺軌道(いしはらまんがんきどう)です。それによって穴内鉱山がある黒滝地区(現・南国市黒滝)から繁藤駅にマンガンが運ばれ、貨車等に積み替えて全国に出荷されていました。高知線の歌に歌われているように、木材が運ばれることもあったようです。

戦後は外国産の安いマンガン鉱石におされ、穴内鉱山は事業停止により閉山しました。専用軌道は木材を運ぶ森林鉄道として生き長らえていたようですが、豊富な雨量に着目した国の治水政策により穴内ダムが建設され、石原満俺軌道の大部分がダム底に沈み役目を終えました。鉱山の閉山により急速に寂れる恐れがあった繁藤地区周辺を、ダム建設の補償名目で救済する意図があったのかもしれませんね。

※繁藤駅に関しては、以下の記事で詳細にご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【繁藤駅】四国最高所に位置する鉄道駅

 

【「繁藤駅」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。