【旧吉野川橋】原位置にある日本最古の道路トラス橋

高知県大豊町、四国最長を誇る吉野川の中流域にかかる「旧吉野川橋」は、原位置にある道路用のトラス橋としては日本国内で最も古いものです。

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旧吉野川橋

明治時代に架けられ当時の架橋技術を目にすることができる貴重な「旧吉野川橋」ですが、現在は通行止めとなり自然に還るのを待つ状態になっています。

 

トラス橋とは

仁淀川橋りょう_トラス橋

この写真は、旧吉野川橋と同じ四国にあるトラス橋の事例の土讃線・仁淀川橋りょうで、「りょう」を漢字で書くならば「梁」になり「橋梁」と記されることもありますがそれは常用漢字ではないため、公共物の観点でいえば橋梁ではなく「橋りょう」が正解です。

トラスとは棒状の資材が三角形になるように組み合わせた構造のことを指し、その構造で作られた橋をトラス橋と呼びます。強度に高い三角形の特性を生かした工法です。その資材は木材・鋼材問うものではありませんが、鉄道や道路のようにある程度の大きさの橋には鋼鉄が用いられるのが一般的です。

トラス橋といっても予算や地形、その時代に主流だった工法などによって形状は多岐にわたり、一つの橋でも異なるトラス構造を持つ橋梁も珍しくありません。写真の土讃線・仁淀川橋りょうを例にとってみると、

(右、高知方面)
平行弦プラットトラス×3連
曲弦プラットトラス×1連
平行弦プラットトラス×4連
(左、須崎方面)

の構造となります。

①平行弦・曲弦→全体的な形状
②プラットトラス・(ここにはないですが)ワーレントラス→斜材の組み方

それぞれにメリット・デメリットがあることですが、一般的に橋に掛かる応力は中央部が最も大きく橋脚に載っている両端が最も小さいです。その負担に応じて上弦の高さを変化させたものが曲弦という工法です。平行弦と曲弦では同じ橋長だとしても後者のほうが強度を稼ぐことができるので、ここ仁淀川のように、より大きな力が架かる川の中央部だけ曲弦という事例は全国で広くみることができます。技術的な側面もあり昭和時代になってから用いられた事例が多いです。

最上川橋りょう_トラス橋

現存最古のトラス橋である山形県の最上川橋りょうは、「荒砥鉄橋(あらとてっきょう)」とも呼ばれます。

こちらは、

ダブルワーレントラス×3連
プレートガーダー×9連

を組み合わせた構造です。

後者はトラスではないですが、当記事に登場する吉野川にも川の流れ(=力)を受けやすい部分はトラス構造で強度を稼ぎ、そうでない部分をプレートガーダーで繋ぐ事例は多数存在します。ワーレントラスという工法は鋼材を斜めに組んで強度を稼ぐ工法で、前述のプラットトラスが直角三角形の模様が出るとしたら、ワーレントラスで鋼材が組まれると正三角形の形状になるのが特徴の一つです。
しかしながら、こちらのトラス橋は「ダブルワーレントラス」とあります。通常のワーレントラスであれば上弦から始まって斜下・斜上・斜下・斜上…と斜鋼材を組んでいくものですが、ダブルとなると下弦から始まって斜上・斜下・斜上・斜下…の斜鋼材も存在することになります。そのようにする利点は2本の斜鋼材を用いることによって強度を高めることができる点ですが、デメリットとして鋼材が多く必要です。ですので日本では明治時代に架けられた橋には同工法が用いられた例がありますが、土木技術が進むにつれあまり採用されなくなった工法です。

当記事の旧吉野川橋は「原位置で存在する最古の道路橋」ということですが、こちらの最上川橋りょうは道路・線路問わず「現存最古のトラス橋」です。

原位置
現存

古い橋を調べていると必ず登場する文言です。

日本は明治時代以降道路より鉄道優先で国内交通網を整備していくわけですが、その時代は今では一般的なPC橋(=Prestressed Concreteの略、鉄筋コンクリート構造のこと)の技術は無く、橋を架けるとなると木材か鋼材で架橋したわけですが、後者はほぼイギリスやアメリカなどからの輸入です。電話やメールがない時代なので発注を行うだけで月単位の時間が必要です。納品はアメリカ製で例えるならば船で太平洋大横断、費用面でも手間面でもそんなに易々近代橋を架けることができませんでした。万が一鋼材を誤って海に落とそうものならば、たった一部品だとしてもそれだけで年単位の工期遅延が生じます。それが例えば日本海側の現場で国防の側面が強いインフラ整備だったとしたら、工事が遅れているうちに戦争が始まってしまいます。時代が時代だけに工事監督は辞任では済まなかったでしょうね。

そのような鋼材の事情もあり、トラス橋に関しては幹線、もしくは都市部で使用されていたものが地方へ転用された例が全国に多々存在します。写真でご紹介した最上川橋りょうは、元々東海道本線・木曽川橋りょう(愛知県/岐阜県)で使用されていたもので、それだけに歴史は古く明治20年(1887)に建造され大正3年(1914)までその土地で供用されておりました。
ですが、天下の東海道本線ゆえ長大列車や重量のある貨物が頻繁に往来します。時代が進んでくると耐用年数や強度面により架け替えが行われるわけですが、前述のような鋼材調達の事情があり「幹線で用いるには強度が不足するけれど、地方線ではまだまだ使用できる」との考えで、大正10年(1921)~大正12年(1923)の期間に山形県での新線建設に分割転用されて今に至ります。余談ながら分割された残りの鋼材も同じ山形県の同じ最上川の鉄道橋に転用されています。
他の例では徳島県の現役最古のトラス橋も兵庫県の福知山線で使用されていた鉄橋が転用されたものです。

私個人的には原位置・現役最古いずれも価値があることと思っているので優劣はないと考えておりますが、前述のような事情が多い中で「原位置で最古」のトラス橋は珍しい事例ですので、興味を持って旧吉野川橋の調査に訪れました。

 

橋ができた旧暦4月8日という日

旧吉野川橋_案内看板

明治時代は1868年10月23日(明治元年9月8日)から1912年(明治45年)7月30日の期間です。

この場所に道路橋が架けられたのは明治44年(1911)旧暦4月8日(新暦5月6日)のことです。同年2月2日、全権である小村寿太郎によって日英通商航海条約が調印され関税自主権が回復、これによって安政年間に締結された不平等条約が撤廃されました。

旧暦の4月8日は「卯月八日(うづきようか)」といって農作業が始まるこの時期に山から里へ神様を招来する「天道花(てんどうか)」という行事が行われておりました。4月の中でも末広がりで縁起が良い「八」の日は特に物事始まりの日に相応しいとされ、橋の開通日に選ばれたという理由がありそうです。

また旧暦4月8日この日は釈迦如来の生誕日でもあり、各地でお釈迦様の生誕を祝う「花祭り」「灌仏会(かんぶつえ)」が行われます。四国八十八ヶ所霊場の札所の中にも花堂が設けられ、釈迦が誕生した時の出来事にちなむ甘茶のお接待が行われているところがあります。

いずれにしろ旧暦4月8日は非常に縁起が良い日なのは疑いようがないですが、旧暦が登場するときは現在の暦に置き換えると約1ヶ月後のことと頭の中で変換する必要があります。すなわち明治44年旧暦4月8日は明治44年新暦5月6日(土)になります。
こちらの橋では4月か5月かということはあまり関係ないように思いますが、別の例だと暦の上で冬から春になるといわれる2月4日の立春はむしろ厳冬期です。それを新暦に当てはめると3月上旬となり「季節が春に変わりますよ」といわれてもしっくりきます。世の中には旧暦の日程をそのまま新暦にもってきているものがあり、季節を表すものを中心に注意が必要です。

 

旧吉野川橋の諸元

旧吉野川_構造・諸元

旧吉野川橋の構造と諸元が掲示されており、上から一つずつ見ていきます。

開通年月日…
原位置(=元の場所)から現存する道路用のトラス橋としては日本最古です。

橋長・幅員…
昭和33年(1958)までの現役時代は自動車も通行することができました。

形式…
ここでは二種類の形式が示されておりますが、実はトラスは3つありそれは左岸寄りの樹木で隠れて存在します(そちらは後年の作のようで近代化土木遺産の認定を受けておりません)。

橋床形式…
トラス内に敷かれた路盤やガードレールは木製だったそうです。木の形状は角材だと思われますが、その上を路線バスが通っていたと思うとちょっとこわい気もします。

径間数支間…
形式に準じるデータです。例えばトラスが3つにわかれて存在していれば3径間となります。吉野川橋は3つのトラスで構成されていますが、それぞれ構造が異なるので1径間ごとの表記になります。
支間とは支点から支点までの距離で、通常この長さの橋になると橋桁を分割したものを橋脚・橋台に乗せて接続しますが、その分割した橋桁の寸法を表すものが支間長です。なお支間長50.2mは明治時代に建設され現存するトラス橋の中で日本最長です。

制作・架設…
汽車製造合資会社 ※後述します

橋台・橋脚…
練石積、煉瓦練石積
「練石積(ねりいしづみ)」とは、石を積み上げる際に石と石をモルタルやコンクリートで固めたもので、お城の石垣のようにそれを用いず石を積む方法は「空石積(からいしづみ)」と呼ばれます。

工事費…
5万1千円(現在価1億5千万)

 

汽車製造合資会社

旧吉野川橋_滊車製造合資会社

滊車製造合資会社は明治29年(1896)9月に大阪において設立された鉄道車両メーカーで、現在ユニバーサルスタジオジャパンがある場所の近くに工場がありました。

それまで機関車の製造は海外からの輸入か国産だとしても官営工場でのそれに限られていましたが、滊車製造合資会社は民間企業として初めて機関車製造を行ったメーカーになります。
初代社長は日本の鉄道の父と称される井上勝(1843-1910)で、明治5年9月12日(1872年10月14日)新橋-横浜間における日本初の鉄道開業や、その黎明期は外国人技術者に頼っていた鉄道建設を後年日本人の手だけでも行うことができるように発展させた人物です。鉄道庁長官時代は鉄道網整備が主な功績ですが、退官後も鉄道事業への関与を続け、民間主導で設立されたのが汽車製造合資会社です。機関車においても国産化へのこだわりが強かったようです。
同社は昭和47年(1972)11月に神戸市に本社を置く川崎重工業と合併し法人としての歴史を閉じますが、鉄道車両の製造だけでなくこちらの旧吉野川橋のような橋梁の製造も手掛けていました。新幹線のメーカーといえば合併先の川崎重工のイメージが強いですが、元々それを手掛けていたのは汽車製造社です。会社合併時に汽車製造社が持つ新幹線0系電車の製造権が川崎重工業へ引き継がれ、現在の新幹線製造に至ります。

 

旧吉野川橋の被災と転機

旧吉野川橋_地滑り

旧吉野川橋に転機が訪れたのは昭和29年(1954)に発生した地滑り災害で、その痕跡をトラス下弦に見ることができます。

旧吉野川橋をおそった地滑り災害は、左岸の斜面に立っている橋脚を動かすほど大きなものだったそうです。橋は応急処置が施され復旧しますが、昭和33年(1958)3月に下流側に架けられた新橋開通に伴い廃橋になりました。
左岸の橋脚が動いたため、上物であるトラスもそれに引っ張られ、写真のように鋼材が歪んでしまったそうです。川中にある橋脚は煉瓦積みの端に切石を埋め込んで補強したもので架橋当初のものと思われますが、被災した左岸側の橋脚は復旧時に更新されたのかコンクリート製です。

旧吉野川橋_通行止め

現在は両岸とも渡口がコンクリートなどで封鎖され渡ることができません。

廃橋になり30年ほど経ったのち、旧吉野川橋は昭和60年(1985)に鋼板を敷きフェンスを設置して人道橋として再利用されます。しかしながら橋自体の危険度が高まったことなどにより平成14年(2002)に再び通行止めになり現在に至ります。

トラスを眺めていると、前述のようにアイバー(下弦の鋼材)が歪んでいたり、それと縦の鋼材を接合するピンが抜けていたり、レーシング(鋼材に斜めに付けられている補強材)が施されているもののそれが落下して無くなっていたり、今にも落橋しそうな状態です。保存の話は無いようなので原型を見ることができるのは今だけな気がします。

 

この場所に永久橋が架けられることになった点を考察

旧吉野川橋_空撮

手前→上流・早明浦ダム方面、奥→下流・大歩危方面、右・穴内川・高知方面で、旧吉野川橋が当時としては豪華な造りになった理由を考察してみます。

一般的に吉野川の本流に初めて架けられた橋は、昭和3年(1928)12月竣工した徳島県の吉野川橋と紹介されます。
偶然ながらこちらの記事の橋の名称も全く同じ吉野川橋ですが、それは明治44年(1911)旧暦4月8日(新暦5月6日)に竣工しています。あれ?と思いますが、これについて前者は「徳島県内の吉野川」を拡大解釈されているかもしれません。そもそも初めての橋となると高知や徳島やの話ではなく、人類が暮らし始めた頃のものになるはずです。

明治時代になって「永久橋」という表現が登場します。明治時代以前の橋の主な資材は木製や石造で、形体は沈下橋であったりかずら橋であったりもしますので、天候状況などによって渡れたり渡れなかったり、流出して失われたりする自然の橋です。
明治時代になって、それでは…ということで企画されたのがその当時の最先端技術であったトラス橋のような鋼鉄製です(コンクリート製の橋はもう少し後の時代)。それらは「ほぼ」永久という例えから永久橋と呼ばれました。
その永久橋を初めて吉野川に架けるとなったのが、当地の吉野川橋ではないでしょうか。その頃の高知県(土佐)は政界に大きな影響力があったでしょうし、建造を請け負った汽車製造社の出資者の一人に岩崎久弥(いわさきひさや/1865-1955)が名を連ねていたので、そこの取り計らいがあって実現したものかもしれません。同氏は高知県出身で岩崎財閥創始者の岩崎弥太郎の長男で三菱財閥3代目総帥です。

新旧吉野川橋を通る国道32号の前身となる道は、明治28年(1894)に完成した香川県の大久保諶之丞(おおくぼじんのじょう/1849-1891)が提唱した四国新道の構想に由来しますが、地図を開いて阿波池田(三好市)からこの場所まで見ていくと、国道32号はほぼ吉野川の左岸を通っていることがわかります。現在では豊永駅付近で吉野川を二度渡りますが、それらは川戸坂と呼ばれる難所を回避するため戦後に改良工事が行われた箇所になります。
そんな四国新道が唯一吉野川を渡る地点であり、初めて吉野川に永久橋を架けるとなると、当地に最先端の資本が投入されたとしても不思議ではありません。

吉野川本流は、手前から旧橋・新橋をくぐったところで穴内川と合流してから、北へ向かって流れていきます。その先には渓谷美で知られる大歩危・小歩危があります。
高松から高知へ向かう国道32号は阿波池田以南は吉野川に沿って走るので、この橋を過ぎても横に川があり、引き続き吉野川を遡っているものと思い込みがちですが、こちらの吉野川橋以南で国道32号横を流れる川は穴内川になります。国道32号はその先にある根曳峠(ねびきとうげ、標高395m)を越えて下りると平野部に差しかかりますが、その場所にあるのが29番札所国分寺で、四国八十八ヶ所霊場の遍路道ともつながります。

 

国内最古の道路トラス橋を見ることができるのは今だけ「旧吉野川橋」

空撮動画で、橋や周辺環境、橋の損傷部分などの様子を取り上げておりますので、こちらもぜひご覧ください。

 

※旧吉野川橋の近くにある国宝建築物「豊楽寺 薬師堂」に関して、以下リンクの記事で紹介されていますので、こちらもぜひご覧ください。

【豊楽寺】山間部の大豊町にある杮葺きが引き継がれる高知県唯一の国宝建築物「薬師堂」

 

【「旧吉野川橋」 地図】

 

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。