四国の鉄道駅で最高地点に位置する繁藤駅周辺は、四国有数の多雨地帯です。かつて豪雨によって発生した土砂災害が民家や鉄道を襲い、大きな被害が発生した歴史があります。

昭和47年(1972)7月に繁藤駅付近で発生した繁藤災害で亡くなられた方々を悼むために災害被災者慰霊碑が建立されています。
※繁藤駅に関して、以下リンクの記事で詳細にご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【繁藤駅】歌を手掛かりに当時の情景を想像することができる鉄道路線
昭和47年7月豪雨と繁藤災害

繁藤駅跨線橋から高松方面を眺めると、この見えている景色のほとんどが、左の山から流れ出した大量の土砂で埋めつくされたのが繁藤災害で、左の山の植生が異なる部分(竹が茂っている)がその痕跡です。
昭和47年(1972)7月4日から5日にかけて、土佐山田町繁藤では豪雨が発生しました。5日6時の1時間降雨量95.5mm、4日9時から5日9時にかけての24時間降雨量が742mm、これは平年の3ヶ月分という大量の雨量です。それに伴って土砂崩れが数度発生しました。
5日6:45頃 幅10m高さ20mにわたって小崩壊
5日10:50頃 幅170m長さ150m高さ80mにわたって大崩壊
2度目の崩壊は土砂崩れの規模が特に大きく、現場に居た消防団員や町職員、停車していた列車の乗務員や乗客らを巻き込みながら、20m下を流れる穴内川を土砂が埋め尽くしました。
降りしきる豪雨に雨量計が規制値を超えていて、列車は繁藤駅3番線(写真一番右)に停車して運転を見合わせていた状態でした。そこを土石流が襲い、先頭の機関車は川の対岸まで飛ばされるほど土砂に押し流され、客車1両目はそれに乗りかかるように着地、2両目は落下は免れたものの宙吊り、3両目4両目は流出を免れたという大惨事になりました。また、最初の小崩壊で消防団員1名が行方不明になり、その捜索に救助隊員が出ていたことが人的被害を大きくしました。
写真右下にプラットホームを繋ぐ跨線橋がわずかに映っていますが、土石流がギリギリ到達しなかった地点が、跨線橋の2・3番ホームの着地点です。そこを境に明暗がわかれました。
災害発生からもう50年以上経過しているので、一見すると痕跡を探すことは難しくなっています。しかしながら土石流が発生した左側の山の斜面に、わずかながら災害の痕が感じられます。竹が群生している部分がありますが、災害後に繁茂したものと考えられます。
また、駅の下を流れる穴内川(写真右隅。映っていません)には、撤去できなかった車両の部品が今も川の中に残されているそうです。
web上で「繁藤災害」と検索すると、被災当時の写真が検索結果として出てきます。
また、この時の豪雨は繁藤だけではなく全国各所で豪雨が発生して、特に大きな被害が出たのが宍道湖の堤防が決壊した島根県や、山津波が発生した熊本県の天草諸島、矢作川が氾濫した愛知県、そして一番最初に発生したのが高知県の繁藤災害でした。それらの豪雨によって犠牲になられた人が全国で400名を超える大惨事になりました。一連の豪雨災害を受けて、気象庁によって「昭和47年7月豪雨」と命名されています。
繁藤大規模土砂災害被災者慰霊塔

繁藤駅から国道32号を高松方向に少し進んだ地点、繁藤駅を高松方面に向かって出発する列車が最初に差し掛かるトンネル付近に、慰霊碑があります。
後年、災害で亡くなられた人々を悼む慰霊碑が建てられました。その場所は被災した繁藤駅から約700m離れています。そちらへは自動車でのアクセスが便利ですが、繁藤駅で下車して徒歩で向かっても無理がある距離ではありません。国道には歩道が設置されているので安全に行くことができます。
ただ、列車で慰霊碑にアクセスする場合は繁藤駅に発着している列車本数がとても少ないので、事前に計画を立てる必要があります。また、駅を含む周辺に公衆トイレが無かった気がするので、その点にも要注意です。

災害慰霊碑周辺は広場になっていて、ここには災害の顛末が記載された石碑があります。
慰霊碑がある場所にやってきました。

繁藤災害は、最初の小崩壊で行方不明になった消防団員を捜索するために、まだ雨が降りしきる中を大勢の救助隊員が崩落現場に出ていたことで、人的被害が大きくなってしまったことが石碑に記されています。
現代では「二次災害」という言葉がありますが、この当時はまだその概念が浸透していなかったようです。繁藤災害が契機になり二次災害という単語が知られるようになりました。以後は高知県の災害救助ガイドラインの見直しはもちろん、全国的に救助活動が二次災害を防ぐものへと向上するきっかけになりました。
また列車の運行基準も大幅に見直されました。土讃線では繁藤災害以降にも各所で大小様々な土砂災害が発生していますが、列車や人間が被災するような土砂災害は起きていません。
地名から考察する防災

慰霊碑の後方から土砂崩れがあった方向を眺めても、この場所は被災地点から離れているので、痕跡などは見えません。
繁藤の旧地名である天坪村は、江戸時代には雨坪(読みは同じ)と書きました。雨が多く、それが溜まりやすい地形であることに由来するそうです。明治になって人間が暮らす場所に「雨」の字は縁起が良くないので「天」に改称されましたが、それも合併により消滅して災害時の自治体名は土佐山田町でした。地名の上では雨がよく降る場所は浮かび上がってきません。先人が生活に注意を払う意味もあって名付けた地名が活かされなかったといえます。
これは繁藤に限らず、都市部等では不動産価値を上げるために縁起の良い漢字に改名されている例が多く存在します。改名はされていませんが「渋谷」の渋は行き止まりのような意味があり、そこに谷が付加されています。今でこそ大規模な雨水貯留施設が整備され、ブランディングによりおしゃれな街の代表のような存在になっていますが、昔の渋谷駅周辺は雨が降ると水浸しになることが頻繁にあったそうです。
自然災害の規模が大きくなっている昨今こそ、今一度住んでいる土地の地名、できれば昔の大字小字を調べて、そこがどのような場所なのか知っておくことが、一つの防災活動になるかもしれません。
繁藤災害では60名もの尊い命が失われましたが、雨が止んでからの捜索活動では「一人の人柱も出さない」をスローガンに、行方不明者を出すことなく60名全員が発見されたそうです。
【「繁藤大規模土砂災害被災者慰霊塔」 地図】










