86番札所志度寺は、最初に「死渡道場」と命名され、寺の背景を成す海が浄土への入り口であるという思想を表していました。その思想は、現在の境内の建造物や配置にも色濃く残っています。
レイライン的な観点から見た札所の構造
四国八十八ヶ所の札所は、由来書はもとより、様々なガイドブックや寄稿文などで、その歴史が紹介されています。そんなこともあって、すでに語り尽くされているような印象がありますが、個々の札所をその構造から分析するレイラインハンティングの観点で見直してみると、今まで語られてこなかった札所の歴史や、個々の札所に込められた古の人の思いが明らかになってきます。
今回は、さぬき市エリアの86番札所志度寺をご紹介します。
明るく伸びやかな風景が広がる東讃に点在する聖地
海沿いにあって海人の伝説を伝える志度寺。静御前の母方の出自が近く、その勢力範囲だったと伝えられる87番札所長尾寺。いずれも海を活躍の場とする一族が崇めた聖地で、その名残りが各所に残る。
一方、四国山地が間近に迫る谷間に位置する88番札所大窪寺は、忌部氏などの山の民との縁が深い。
お遍路さんにとっては、結願へ向かっての最後の仕上げの道のりであり、足が急ぐ。リピーターや一般の観光客、あるいは車で巡るお遍路さんにとっては、コンパクトに讃岐らしい自然の変化と文化の変化が味わえるエリアであり、札所だけでなく、その間にある様々な史跡なども巡りたい。
また、結願した後、大窪寺から再び海へ向かうエリアにも、日本神話との関わりの深く、空海はもとより最澄も滞在して修行したと伝えられる古社・水主神社などがあり、讃岐の歴史の古層を味わえる。
86番札所志度寺(しどじ)
<由緒>
四国八十八ヶ所86番札所志度寺
真言宗善通寺派 補陀洛山清浄光院
本尊: 十一面観世音菩薩
寺伝によれば、創建は推古天皇33年(626)で、死渡浦に流れ着いた霊木を凡薗子尼(おおしそのこに)が草庵へ持ち帰り、その霊木から本尊(十一面観音)を彫って堂に祀ったのが始まりとされています。天武天皇10年(681)には藤原不比等が堂宇を増築し、「死渡道場」として名づけました。持統天皇7年(693)に行基が堂宇を整備し、寺名を「志度寺」に改めました。能のモチーフとなった「海女の玉取り」伝説でも知られています。
渡海浄土の思想と海人の記憶を残す
志度寺は海岸に近く、海を背負う形になっています。最初に命名された「死渡道場」とは、寺の背景を成す海が浄土への入り口であるという思想を表した命名で、霊木とともに閻魔大王が現れたという言い伝えにも繋がっています。その故事に因んで、閻魔堂も設けられていて、さらに三途の川の手前で衣類を剥ぎ取るとされる奪衣婆を祀る堂とともに、曲水式庭園や枯山水の庭、さらに五大宇宙を意味象徴する五重塔と、この世とあの世を循環する仏教世界のモチーフがまとめられているのが志度寺の特徴です。
志度寺、長尾寺、大窪寺は札所巡りの最終盤ということで、「上がり三ヶ寺」とも呼ばれます。志度寺まで来れば、札所としても残すところ二ヶ所という仕上げに近く、ここまで辿ってきたお遍路さんも、巡礼のカタルシスがもたらされるのが間近であることを意識します。そこに、死と再生のモチーフがふんだんに散りばめられているわけですから、満願成就が近いという実感が強くなるのはなおさらでしょう。
志度寺の本尊は十一面観音ですが、これは水と関係の深い仏であり、「海女の玉取り」の伝説とともに、古くから海人族にとっての信仰の場であったことがうかがえます。
志度は江戸時代を代表する知識人である平賀源内の生地でもあり、志度寺門前の常楽寺には源内の墓があります。市内には生家も残され、平賀源内資料館として公開されています。
四国八十八ヶ所霊場巡礼の最終盤、遍路の締めくくりをスタートする86番札所志度寺で、お寺に散りばめられた死と再生の循環のコンセプトを感じながら参拝すると、より感慨深いものになることでしょう。
【「86番札所志度寺」 地図】