弘法大師空海が生まれた善通寺周辺は、札所が密集しているだけでなく、遍路道沿いに大師ゆかりの霊蹟が多数存在します。西行法師が芋泥棒と間違えられたことに関係する歌碑が残る「七仏寺」もそのひとつです。
—– こちらの記事に登場する主な地名・単語
善通寺市(ぜんつうじし)
霊蹟(れいせき)
七仏寺(しちぶつじ)
第71番弥谷寺(だい71ばんいやだにじ)
庵(あん、いおり)
古験松(こげんまつ)
吉原町(よしわらちょう)
乳母(うば)
象頭山金毘羅大権現(ぞずさんこんぴらだいごんげん)
第72番曼荼羅寺(だい72ばんまんだらじ)
—– こちらの記事に登場する人物
西行(さいぎょう / 1118~1190)… 平安末期から鎌倉初期にかけての僧侶・歌人。四国では善通寺市周辺で庵を結んだため、数多くの霊蹟が伝わる
七仏薬師如来
順打ちで71番札所弥谷寺から下山すると、高松自動車道をくぐり、二つの池の横を通ります。その二つ目、水上ゴルフ場がある池のほとりに番外霊場・七仏寺が存在します。
旧来の遍路道の証・へんろ道保存協力会の赤い道しるべ
「古験松」と書かれた石碑
西行法師の歌碑
大師像
民衆の厄除けを願って、弘法大師によって七つの薬師如来が彫られ祀られたことが、当霊場の由来。
その後、大きな寺院となり栄えたが、戦国時代に兵火によって焼失。現在のお堂は江戸時代後期に建て替えられた。
芋泥棒と間違われた西行法師
善通寺は平安後期から鎌倉初期にかけて活躍した西行法師ゆかりの地。
仁安3年(1168)頃、中四国を旅した記録が残されており、特に四国では弘法大師の霊蹟を訪ねる旅を行っていた様子。大師の地元に近い場所である現在の善通寺市吉原町では、庵を結んでしばらく滞在したようで、この場所のように歌が残されていることもある。
月見よと芋の子どもの寝入りしを起しに来たが何か苦しき
西行が当地で庵を結んでいたある晩のこと。
満月があまりにも綺麗なので、水辺に出て空に浮かぶ月・水面に映る月を鑑賞していた。そこへ近くで芋畑を営む農夫がやってきて、西行に芋泥棒の嫌疑をかける。無実であることと自分が西行であることを告げると「まだ嘘をつくのか。本当にかの有名な西行法師であるなら、一句詠むことくらい容易いだろう」そうまくしたてた。
そこで詠んだのが、こちらの歌。農夫は西行であることを確信すると共に嫌疑をかけたことを詫び、喜んで芋を差し出した。
妊婦にご利益、乳薬師
戦乱により荒廃していたお堂が再建されたのは、江戸時代前期のこと。
堂宇の整備ではなく大池の改修工事を行っている時に石仏が出土。その時の現場監督は、それを堤を組むための資材とするべく適当な大きさに割ろうとしたが、現場監督は気絶。その夜、夢枕に僧が現れ石仏の出自を述べた。男性は治癒後に出家、御堂を建てて石仏を祀った。
また、そののち池の改修を命じられた庄屋が工事がうまくいかず、自身の乳母を人柱に立てることにした。ため池の改修工事は完成したが、悲話が残されることになった。このことに因んで「ここをお参りすると乳の出が良くなる」と、地域で信仰を集めている。
御堂を覗いてみると、女性の乳房をかたどった絵馬を見ることができる。
金毘羅街道の一部
此方
へんろ
こんぴら
道
西行法師の歌碑の裏には、この場所が遍路道であること。伊予と讃岐を結ぶ伊予街道(讃岐街道)の一部であることが記されている。
「全ての道は金毘羅に通じる」
四国の街道は、しばしばそのように語られます。この場所はお遍路さんはもちろん、象頭山金毘羅大権現へ向かう参詣者も数多く往来したことでしょう。
番外霊場・七仏寺の納経は、72番札所曼荼羅寺で授与を受けることができます。
【「七仏寺」 地図】