【栗林公園】正門に架かる石橋からみる歴史あれこれ

栗林公園の正門の役割を担う東門。その入口に水路をまたぐ短い石橋が架けられていますが、こちらは元々別の場所にあって移設されたもの。橋の表記内容を眺めながらその歴史を考察したいと思います。

栗林公園 紫雲山

栗林公園東門に架けられている石橋のお話です

 

常磐橋

栗林公園 常盤橋 北側から

当初設置された役割を終え栗林公園東門で第二の人生を歩む橋

現在は栗林公園を囲む水路に架かる2mほどの石橋ですが、元々は明治時代になって高松城の外堀に架橋されていたもの。すなわち「城内」「城下」をわける位置に架かっていました。
※栗林公園の歴史に関しては、以下リンクの記事で詳しくご紹介しています。

【栗林公園】四国を代表する庭園はなぜ公園と呼ばれているのか

 

常磐と常盤

栗林公園 常磐橋 北側欄干

常磐橋は「ときわばし」と読みます

橋の名称になっている「常磐」は「ときわ」の他に「じょうばん」とも読むことができて、「磐」のあしの部首に「石」ではなく「皿」の部首を当てて「常盤」と書く場合もあります。

「常磐」「常盤」
どちらも読みは「ときわ」「じょうばん」です。

「磐」を単体で見た場合「大きな岩」という意味があります。
それに「いつも」という意味の「常」を合わせると「いつも変わらず存在する大きな岩」。大きな岩はそうそう動くことが無いので、「ずっと」「永遠に」と解釈することができます。いずれにしても縁起の良さを表す単語なので、新しい街づくりの際等に用いられました。全国各地に常磐(常盤)の地名が存在するのはそのような事情があります。

読みで見た場合はどうでしょうか。
「常磐」の字でパッと連想されるのがJR東日本の「常磐線(じょうばんせん/日暮里-岩沼)」や「常磐自動車道(じょうばんじどうしゃどう/三郷IC-亘理IC)」。

常陸國(ひたちのくに)…現茨城県
磐城國(いわきのくに)…現福島県浜通り、宮城県の一部

隣接する地域の頭文字を一つずつ取って両地域を表すものなので、両地域を接続する路線名などにはピッタリの地名です。「常磐」と書く場合の読みは「ときわ」より「じょうばん」の方が優勢なように思います。

「常盤」はどうでしょうか。こちらは「ときわ」と読むことが多く、人名はこちらの漢字が当てられていることが多いように思います。女優の常盤貴子さんの姓の字は「盤」のほうです。「盤」のあしの部首である「皿」には「物を乗せるもの、支える」という意味があるので、脈々と受け継がれていく一族をずっと守っていくという意味で、姓名には「常盤」の字が適当ということでしょうか。

茨城・福島両地域を指す「常磐」の場合はこの字一択といえますが、「常磐」「常盤」どちらの漢字にも「ずっと」「永遠に」「支える」のような意味があるので、その物事が指す範囲の広さによる使いわけであるような気がします。
超有名どころの漫画家たちが下宿していたことで知られる「トキワ莊」。タイトルこそ片仮名ですが、漢字で書くとしたらどちらなんでしょうね。「常盤」の方が似合うような気がします。

 

それでいくと栗林公園の常磐橋は、前身の外堀に架かっていた橋としても範囲の広さでいえば「常盤橋」が適当なのでしょうが「常磐橋」の字が当てられています。市内に存在する「ときわまち」も「常磐町」と書きます。
高松の場合「常磐」の方が優勢な理由は、江戸時代の高松を治めたのが常陸國出身の松平家。自身らの地元であり馴染みがある「常磐」の字を当てたのかな、と私は想像しています。

 

紀元と皇紀

栗林公園 常磐橋 南側

南側の欄干に記されている「紀元二千五百三十四年二月」

「紀元(きげん)」
とは、ある出来事が起こった年を1年(=元年)として時間を測定する紀年法。

今日我々が親しんでいる紀念法に「西暦(せいれき)」がありますが、こちらはイエス・キリストが誕生した年を「1年」と計算する紀元。それ以前の時間を表すものを「紀元前●年」となります。一般的には紀元前(BC)の場合のみ「紀元前●年」を付けます。西暦2021年と言うことはあっても「紀元2021年」や「紀元後2021年」は、間違いではありませんがあまり用いることがない表現です。

それでいくと現在は2021年。こちらの石橋の欄干に記されているような「2534年」の西暦世界はまだ訪れていません。どういうことでしょうか。

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我が国で用いられている紀元には西暦と元号とは別に、かつて「皇紀」という紀元が盛んに用いられていた時代がありました。

皇紀は「こうき」と読みます。正確には「神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)」と呼びます。第1代天皇・神武天皇(じんむてんのう)が即位した年を元年(1年)とする日本独自の紀年法。

皇紀元年=西暦紀元前660年
皇紀2681年=西暦2021年=令和3年

それでいくとこちらの橋に記されている「紀元二千五百三十四年二月」は、

皇紀2534年=西暦1874年=明治7年

こちらの石橋が元あった場所に架橋されたのは明治7年(1874)2月なので、計算が合います。同年同月の出来事として、九州佐賀で江藤新平(えとうしんぺい/1834-1874)を党首とする佐賀の乱が発生しています。
※江藤新平と佐賀の乱に関しては、以下リンクの記事で詳しくご紹介しています。

【高知県東洋町甲浦】江戸を東京と改めた江藤新平の捕縛の地

高松城外堀に架かっていた常磐橋は、明治になりそれまで木製だった橋がこちらの石橋に架け替えられました。その後都市化が進むにつれ徐々に外堀が縮小されていき、明治33年(1900)に外堀は完全に埋め立てられ石橋は撤去。その一部が現在地である栗林公園に移設されて存在することになります。

 

皇紀に話を戻すと、現在皇紀を目にする場面は神社で用いられている暦が思い浮かびますが、一般的に目にする機会はあまりありません。しかしながら昭和の戦前には努めて用いられていた時期があります。

昭和15年(1940)は皇紀2600年という区切りの年を迎えることから、皇紀を大日本帝国の公式紀元として用いる動きが加速していきます。その流れは昭和15年の皇紀2600年にピークを迎え、各地で「紀元二千六百年記念行事」と銘打った催しが盛大に行われます。いわゆる「キリ番」の年を迎えるということで、ここに向けて国内・海外領土共に神社の建立や改修を行うことが推奨されました。
このとき日本は「15年戦争」真っ只中。旅行は自粛が呼び掛けられていましたが、この"ゼロ年"の神社への参拝旅行だけはむしろ奨励され、伊勢神宮へは800万人の人々が訪れたことが記録されています。昭和15年(1940)の全国人口は約7,250万人なので、単純計算国民の11%が伊勢神宮を訪れたことになります。

「日本に天皇あり」を国内外にアピールするために第12回夏季オリンピック東京大会・第5回冬季オリンピック札幌大会が計画されたのもこの年です。両大会は日中戦争の長期化に伴い開催権を返上。幻の五輪となりました。

他では、第二次世界大戦(太平洋戦争)で日本が用いた兵器に「ゼロ戦」という艦載機があります。
当時の戦闘機の命名ルールとして皇紀(神武天皇即位紀元)の下二桁台の数字を振る慣例があり、ゼロ戦が世に登場した皇紀2600年の「0(ゼロ、れい)」を取って「零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)」と名付けられました。「一式戦闘機(いっしきせんとうき→皇紀2601年製造)」や「九七式戦闘機(きゅうななしきせんとうき→皇紀2597年製造)」も同様のルールによって皇紀から命名されたものです。

 

変体仮名

栗林公園 常磐橋 登支葉波志

南側の道路寄りの変体仮名刻まれている欄干

こちらは変体仮名で表記されています。上から、

「登」
「支」
「葉」
「波」
「志」もしくは「之」

勉強不足で自信がありませんが、こちらも「ときははし」と記されているように思います。

「ときわ」は「常葉」と書く場合もあります。「いつも葉が茂っている」という意味で、豊かさや繁栄を表すこちらも縁起の良い単語です。
大分県に「トキハ」という百貨店等を営む企業がありますが、こちらの屋号は「常葉」を歴史的仮名遣いで表記したもので、読みは「ときわ」です。

 

栗林公園から見た常磐橋

栗林公園 常磐橋 東向き

栗林公園から出る時の風景

左右(左が北)の道が国道11号。焼け野原になった高松市街に戦後登場した、片側三車線のとても交通量が多い道路です。
※国道11号(中央通り)の成り立ちは、以下リンクの記事で詳しくご紹介しています。

【法泉寺】高松空襲からの戦後復興と高松市街地の変遷

 

常磐橋・国道11号の信号横断歩道を渡って真っ直ぐ進むと、高松琴平電気鉄道(ことでん)の栗林公園駅。そこからもう少し行くとJRの栗林駅があります。

これから元々常磐橋があった地点へ行ってみたいと思います。約2km離れているので歩いて行けなくもないですが、ことでん利用の場合は二駅(栗林公園→瓦町→片原町)先になります。

※常磐橋が元々あった場所のご紹介は、以下リンクの記事に続きます。

【高松城外堀】常磐橋のふるさとからみる明治以降の高松市街地の変遷

 

【「栗林公園 常磐橋」 地図】

この記事を書いた人

野瀬 照山
四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。