70番札所本山寺の本堂と参道は方位角220度方向に伸びていますが、これを延長すると、観音寺市街の南東部に当たり、この周辺の地割の向きと方向が一致しています。レイライン的な観点から札所の構造を分析します。
レイライン的な観点から見た札所の構造
四国八十八ヶ所の札所は、由来書はもとより、様々なガイドブックや寄稿文などで、その歴史が紹介されています。そんなこともあって、すでに語り尽くされているような印象がありますが、個々の札所をその構造から分析するレイラインハンティングの観点で見直してみると、今まで語られてこなかった札所の歴史や、個々の札所に込められた古の人の思いが明らかになってきます。
今回は、香川県西部から中部にかけての三豊市・善通寺市・多度津町エリアの札所をレイラインハンティングの手法で分析したレポートをご紹介します。
四国八十八ヶ所巡礼の仕上げに近づいていくエリア
歩き遍路は、「香川までは巡った札所の数が増えていくことが嬉しくて、加算的に数えていたけれど、香川に入ると終わりが見えてくるので、あといくつ残っているかと減算式に考えるようになってくる」と言います。
香川県三豊市に入ってくると四国八十八ヶ所巡礼も終盤で、善通寺市には一つのクライマックスともいえる75番札所善通寺も含まれ、巡礼の仕上げらしい雰囲気が高まってきます。
70番札所本山寺(もとやまじ)
<由緒>
四国八十八ヶ所70番札所本山寺
高野山真言宗 七宝山持宝院
本尊:馬頭観音菩薩
鎌倉時代再建の本堂は国宝。空海が本堂を一夜にして建立したと伝えられる。現在のものは正応四年(1291)に佐々木氏信の寄進により正安二年(1300)心導上人の代に建て替えられたもの。大同二年(807)平城天皇の勅願寺として、空海が自ら刻んだ馬頭観音を本尊に、阿弥陀如来と薬師如来を脇侍として開創し、長福寺と称したとされる。
<財田川沿岸と方位角220度の意味するもの>
68番札所神恵院と69番札所観音寺は財田川の河口近くに位置します。
そこから川沿いに5kmあまり上流の沿岸に位置するのが本山寺です。かつては海運が物流の中心でしたから、当然河口の寺社との繋がりが強かったと想像できます。
本山寺の本堂と参道は方位角220度方向に伸びていますが、これを延長すると、観音寺市街の南東部に当たり、この周辺の地割の向きと方向が一致しています。
これが何を意味しているのかは、今のところ不明ですが、あるいは財田川沿岸の聖地や観音寺市内の他の聖地とのネットワークを示しているのかもしれません。この向きが、240度なら冬至の入日方向と一致し、夏至の日出と冬至の日入を結ぶ二至ラインを意識しているといえますが、20度のズレがあるので、太陽信仰との関わりは薄いでしょう。
<大同二年というキーワード>
何故か四国札所の開山や再興が大同二年に空海によってなされたという由緒をもつところが多いのですが、本山寺もやはり創建が大同二年と伝えられています。これは空海が唐から帰朝した翌年にあたり、記録では、まだ筑紫に滞在している時期です。
この由緒が正しいとすれば、空海は逼塞していた筑紫を密かに脱出し、故郷の四国で盛んに寺院を造営していたことになります。それが証明されれば、日本の仏教史における重要なエピックとなります。
本堂の背後にある何か、あるいは正面にある何かを意識して、この配置となったのでしょうか。
通常の寺社の方位とは違った特徴があり、観音寺市街の地割の方位角も含め、今後この謎を深掘りしていくと新しい発見があるかもしれません。
ここまで、70番札所本山寺のレイライン的観点での分析レポートをご紹介しました。
同じ三豊市・善通寺市・多度津町エリアの71番札所弥谷寺、72番札所曼荼羅寺・73番札所出釈迦寺、74番札所甲山寺、75番札所善通寺、76番札所金倉寺・77番札所道隆寺に関するレポートは、以下リンクの記事もぜひご覧ください。
【香川県三豊市・善通寺市・多度津町エリア】レイライン的な観点から見た札所の構造-71番札所弥谷寺
【香川県三豊市・善通寺市・多度津町エリア】レイライン的な観点から見た札所の構造-72番札所曼荼羅寺・73番札所出釈迦寺
【香川県三豊市・善通寺市・多度津町エリア】レイライン的な観点から見た札所の構造-74番札所甲山寺
【香川県三豊市・善通寺市・多度津町エリア】レイライン的な観点から見た札所の構造-75番札所善通寺
【香川県三豊市・善通寺市・多度津町エリア】レイライン的な観点から見た札所の構造-76番札所金倉寺・77番札所道隆寺
【「70番札所本山寺」 地図】