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香川県三豊市の荘内半島は、生と死を強く意識させる聖地であり、それを象徴する不老不死に関連する史跡が現代にも多数残されています。
レイラインと死生観が強く結びついた稀な地域でもあります。

不老不死を体現する荘内半島

香川県三豊市が冬至と夏至の方位に合わせた条里制になっているのは、先に挙げた荘内半島がこの地方を代表する重要な聖地であり、その半島の形を方位基準にしているからです。
※三豊市の荘内半島のレイラインに関しては、以下リンクの記事もぜひご覧ください。

冬至・夏至を意識した香川県三豊市の聖地・レイラインとお遍路関連史跡

荘内半島は、元々はいくつかの島が連なっていましたが、その島々が砂州によって繋がって、今の半島の形になりました。
かつては現在半島の先端にある三崎から半島南部の仁尾のあたりまでが一つの島で、室町時代の文献にはその島が「浦島」と記されています。

浦島は浦島太郎の「浦島」です。
ですので、浦島太郎伝説に因んだ地名が荘内半島には多く残っています。
例えば、「生里(なまり)」と呼ばれる集落は浦島太郎が生まれた場所。
「箱浦」は太郎が住んでいたところで、竜宮から帰った太郎が箱を開けたところ。
さらに、亀を助けた「鴨ノ越海岸」、乙姫からもらった宝物を積んだ「積」という場所、年をとった太郎が住んだとされる「室浜」、半島の最高峰である「紫雲出山(しうでやま)」は玉手箱から立ち上った煙が漂った場所などとされています。

浦島太郎伝説は、不老不死伝説のパターンの一つです。
太陽の死と再生を象徴する冬至の方位と一致する場所では、同様の伝説が残っています。
例えば、これも前の記事に挙げた若狭の常神半島には竜宮という場所があり、人魚の肉を食べて不老不死となったとされる八百比丘尼の伝説も常神半島が面する若狭湾沿岸に伝えられています。

紫雲出山の山頂には縄文時代の祭祀遺跡があり、荘内半島では太陽再生のイメージが非常に古くから定着していたと考えられます。
紫雲出山から立ち上る太陽再生の儀式の紫煙が、浦島太郎の玉手箱から立ち上る紫煙へと姿を変えたのかもしれません。

紫雲出山地図

紫雲出山 案内看板

紫雲出山 祭祀遺跡

紫雲出山 祭祀遺跡

荘内半島中部に聳える紫雲出山。
その頂は縄文時代の祭祀遺跡がある。
こうした周辺から見てシンボルとなるような山は、「山中他界」として死者の霊が集まると考えられていたことが多い。
その伝で考えると、「シウデヤマ」は「死生出山」つまり死者が集まりさらに命が再生する山という意味だったかもしれない。

 

弘法大師ゆかりの妙見宮で胎内くぐり

荘内半島の南部にある妙見山の中腹には、いかにも磐座然とした巨岩を背負って妙見宮の社が鎮座しています。
この地で弘法大師が求聞持法を修められた際に妙見菩薩のお告げを聞き、岩肌に虚空蔵菩薩の尊像を刻んだのが起源ともいわれている、お遍路さんにもゆかりの宮です。

北辰妙見大菩薩がまつられている妙見宮の社は、冬至の日の出方向を指しています。
さらに背後の大岩は左右の大岩が寄りかかった上にひときわ大きな岩が屋根のように乗っていて、いわゆる胎内潜りのように岩の隙間を抜けられるようになっています。
中は漆黒の闇で進む方向も定まらず、手探りで行くしかありません。
のしかかる岩の圧迫感と次第に通路が狭まってくる恐怖を必死に押しのけて進んでいくと、ふいに岩棚の上に飛び出します。
これは、まさに胎内を通り抜けてこの世に生まれ出た瞬間を蘇らせます。

荘内半島を聖地とした古代の人たちは、冬至の太陽がこの岩の隙間から黄泉の国へと入って行く瞬間を見届け、その日の夕方には、背後の妙見山の頂上かあるいは紫雲出山頂の祭祀場で、半島の突端のその先の海へと没していく太陽を見つめながら、その再生を願ったのでしょう。

そんなことが何世代にも渡って繰り返されるうち、太陽は擬人化され、海の彼方にある竜宮城へと浦島太郎が招かれ、不老不死となってこの世に戻ってくるというストーリーが生み出されたのでしょう。
このストーリーでは、不老不死を得た人間は不自然な存在であり、不老であるが故の哀しみが生まれるという教訓も織り込まれています。太陽が元のまま再生を繰り返すのとは異なり、人の不死は一人の人間にもたらされるものではなく子孫に命の絆を伝えていくことが、人にとっての不老不死なのだと説いています。

巨石と妙見宮の社

巨石と妙見宮の社

巨石をくぐりぬけるのはまさに胎内巡り

巨石をくぐりぬけるのはまさに胎内巡り

巨大な岩をご神体とする妙見宮。
岩の中は漆黒の洞窟で、ここを潜り抜ける「胎内巡り」ができる。
冬至の日の出の方向に向けて開けているので、冬至の朝は、洞窟の中に光が射しこむ。

若狭に伝わる八百比丘尼の伝説も同じことを物語っています。
人魚の肉を食べて不老不死となってしまった少女は、長い年月のうちに天涯孤独となり、死ねない哀しみを背負った尼として、全国を放浪しながら人の菩提を弔っていきます。
八百年に渡って放浪した尼は、故郷に戻って洞窟に篭もり、一心不乱に経を唱え続けることでようやく待ち望んだ死を迎えることができたのです。

 

全国的にも珍しい「磐長姫」を祀る神社

荘内半島には、浦島太郎伝説の他に、もう一つ不老不死を暗示するものがあります。
それは、仁尾に祀られた磐長姫です。

地図上では「大将軍神社」と記されていますが、地元ではこの名は使わず、磐長姫神社と呼ばれています。
どうして大将軍神社の名が付いているかは不明ですが、大将軍神社の「大将軍」とはミシャクジンが訛ったもので、ミシャクジン(ミシャクジ)は石神信仰であることから、岩のように頑健で不老不死の象徴である磐長姫と習合したのだと思われます。

磐長姫を祀る神社は、伊豆の大室山浅間神社と、同じく伊豆の下田富士にある浅間神社、やはり伊豆の雲見浅間神社、さらに岐阜の伊豆神社の四社しかないとされていますので、ここに磐長姫を祀る神社があるというのは、新発見かもしれません。

磐長姫は日本神話に登場する女神です。
富士山の化身である木之花咲耶姫(このはなさくやひめ)の姉であり、不老不死をもたらす神とされています。
天照大神の遣いで地上を治めることになった天孫瓊々杵命(ににぎのみこと)は、地上に降りる前に、大山祇神(おおやまつみのかみ)から二人の娘を妻として差し出されます。
瓊々杵命は、見目麗しくしとやかな木之花咲耶姫はひと目で気に入りますが、醜女で岩のように頑強な体つきの磐長姫は気に入らず、返してしまいます。
出戻りの磐長姫を迎えた大山祇神は、「磐長姫は瓊々杵命に永遠の命をもたらすはずだったのに、これで瓊々杵命の命は有限になってしまった」と嘆きます。
瓊々杵命は天皇家の皇祖神とされており、このために天皇家には寿命ができてしまったとされるのです。

この仁尾の磐長姫を祀った大将軍神社は、半島の東側にある木村神社と対を成すと地元では言い伝えられてきました。
また木村神社は船越八幡宮の摂社でもあります。
この木村神社の祭神は木花咲耶姫で、荘内半島を挟んで姉妹神が対になっています。

大将軍神社

大将軍神社

磐長姫神社

鳥居には「磐長姫神社」の名も残っている

全国的にも珍しい磐長姫を祀る大将軍神社(磐長姫神社)。
「大将軍」とはミシャクジ=石神信仰を表しているので、石神信仰が日本神話に習合して磐長姫を祀るようになったのかもしれない。

磐長姫を祀った伊豆の二つの浅間神社では、磐長姫がヤキモチを焼くので、境内で木之花咲耶姫や富士山の話をするのはタブーとされています。
ところが、この荘内半島では独立した二つの神社が対を成し、船越神社の氏子は大将軍神社の氏子でもあるので、二神の結びつきは非常に強く、他の地域での扱い方とかなり異なっています。
この構図には、本来は瓊々杵命に二神が嫁ぐことで、美と不老不死が結びついて完璧になるはずだったことを、ここで実現しようとする意図が込められているのかもしれません。

冬至に昇った太陽の光が天照大神の命を受けて地上に降り立つ瓊々杵命を象徴していると考えれば、半島の中心部を縦断していく際、仁尾に達した時に木之花咲耶姫と磐長姫の二神と結ばれ、欠落した構図が完成されるわけです。

 

このように荘内半島には不老不死伝説と結びつく史跡が多く残っています。
地域に残る地名、伝承、祭神やその立地を深く掘り下げていくことが、脈々と受け継がれてきた地域の文化をひもとくヒントになります。
三豊市荘内半島は古代の死生観を垣間見ることができる稀有な土地といえるでしょう。

※本記事は三豊市でアウトドアツアーを実施している Free Cloud(フリークラウド) 主催の調査に基づくものです。

 

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内田一成

聖地と呼ばれる場所に秘められた意味と意図を探求する聖地研究家。アウトドア、モータースポーツのライターでもあり、ディープなフィールドワークとデジタル機器を活用した調査を真骨頂とする。自治体の観光資源として聖地を活用する 「聖地観光研究所--レイラインプロジェクト(http://www.ley-line.net/)」を主催する。