【66番札所雲辺寺→67番札所大興寺】約200年前の建立ながら字の判別が容易な標石

66番札所雲辺寺を下山して67番札所大興寺へ向かう道中に、江戸時代に寄進された標石があります。建立から200年以上経ってますが、記されている字はほぼ完璧に読み取ることができます。

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67番札所大興寺へのわかれ又の標石

66番札所雲辺寺から下山して大きな池の横を通り過ぎ、67番札所大興寺への分岐点にあたるわかれ又に標石が立っている。

 

標石が立つ場所

67番札所大興寺へのわかれ又の標石_わかれ又

左の道の方が広くて歩道があるのでそのまま進んでしまいそうだが、67番札所大興寺へ向かうのであれば右へ分岐するのが正解。

後述の標石正面中下部の項目で触れておりますが、この写真の中に讃岐のこんぴらさんがある山が見えています。住宅の屋根右側にある左肩上がり山で山名を象頭山(ぞうずさん/538m)といいます。名が表す通り、山容が動物の象が左(=北)に顔を向けている姿に例えられます。こんぴらさんがあるのは象頭山南端東面なので、社殿などはこの場所からは見えません。

また住居左に丸みを帯びた山が見えますが、そちらは我拝師山(がはいしざん/481m)といい、幼少の空海修行地として知られる霊山。見えているのは南面ですが、その反対側の北面山麓には72番札所曼荼羅寺73番出釈迦寺があります。

 

標石正面に表記されている内容

67番札所大興寺へのわかれ又の標石_正面

変体仮名と行書体を用いて記されているが解読は容易。


<正面上部>
右(指差し)


右を表す指差しと中部から下部に向かって地名が表記されています。

67番札所大興寺へのわかれ又の標石_正面下部

制作者が意識したかどうか不明だが、それぞれの行先頭文字が「か行」に統一されていてリズミカルに読むことができる。


<正面中下部>
右古まつをじ
すく古んひら道
左くわんおんじ

古こまつをじ→小松尾寺→現・67番札所大興寺
古んぴら→金毘羅大権現→現・金刀比羅宮
くわんおんじ→現・69番札所観音寺


●小松尾寺
67番札所大興寺の地元での呼び名。現在発行される書籍などは「大興寺(だいこうじ)」の名称で統一されておりますが、道の駅たからだの里財田第二駐車場にある標石の紹介でも述べましたように、昭和時代から平成時代に変わる頃まではガイドブックや道路標識などでは「小松尾寺(こまつおじ)」の名称が公式名称として用いられていた感があり、ここでもその例に習っているようです。
※道の駅たからだの里財田第二駐車場にある標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【香川県三豊市財田町】箸蔵寺を参拝した巡礼者が手がかりにしたと考えられる標石

●すぐ
真っ直ぐ・直進のこと。標石によく登場する表現です。江戸時代は直進することをすぐと言っていた、というよりは、後年どこかのタイミングですぐが「今から」「これから」という意味を持つように変化したのではないでしょうか。

●こんぴら
こちらの標石が建てられた時代の名称は金刀比羅宮ではなく金毘羅大権現。愛称は今と同じこんぴらさんだったと思われます。ここでは道と付いているので金毘羅大権現に繋がっている道ということになりますが、まっすぐ進むと1km前後で愛媛高知からやってくる金毘羅街道(伊予土佐街道)と合流してこんぴらさんを目指すことになります。

●くわんおんじ
「かんおんじ」と読み、現在の69番札所観音寺のことを指していると思われます。観音寺の読みについて、市町村名としての観音寺は「かんおんじ」、69番札所としての観音寺は「かんのんじ」が正しい読みになります。
なぜ二通りの読み方があるのか。元来、観音・観音菩薩は「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」を省略した読み方なので、それでいくと「かんおん」が自然な表記になります。ですが口で発音する場合「かんおん」と「かんのん」、後者の方が発音がしやすい。人々の間では「かんのん」「かんのんじ」が浸透したと考えられます。
ちなみに四国八十八ヶ所では徳島県の16番札所観音寺が69番札所と同名。こちらは「かんおんじ」と読みます。更に16番札所がある地名が「徳島市国府町観音寺」ですが、この観音寺は「かんのんじ」と読みます。

16番札所観音寺(かんんじ)/徳島県徳島市国府町観音寺(かんんじ)
69番札所観音寺(かんんじ)/香川県観音寺(かんんじ)市

観音寺という寺院名は日本国内に存在する寺の中で最も多い名称といわれることがあります。そこでも「かんおんじ」「かんのんじ」、寺院によってそれぞれ読み方が異なって存在していることと思います。

 

標石右面に表記されている内容

67番札所大興寺へのわかれ又の標石_右面

お遍路さんにお馴染みの御宝号が刻まれている。


<左面>
南無大師遍照金剛


この場所は金毘羅街道ではなく市街地でもありません。通行するのは専ら地域住民かお遍路さん。標石の情報を誰に伝えたいのか考えたところ、そのターゲットはお遍路さんといえそうです。

 

標石左面に表記されている内容

67番札所大興寺へのわかれ又の標石_左面

左面の記載内容から、仲秋と中秋、新暦と旧暦を考察してみる。


<右面>
文政四年辛巳仲秋
施主
伊豫屋彌兵衛


●文政四年
西暦1821年。同年8月7日(旧暦7月10日)に伊能忠敬らによる大日本沿海輿地全図が完成しました。伊能忠敬自身は1818年に死去しており、同作の完成を見ることは叶わなかったようですが、弟子らが後を継ぎ完成させたのがこちらの標石建立と同時期になります。

●辛巳
「かのとみ」「しんし」と読みます。

十干(じっかん)…甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・・壬・癸
十二支(じゅうにし)…子・丑・寅・卯・辰・・午・未・申・酉・戌・亥

の組み合わせた21番目の干支(えと)。該当する西暦年は

1821年・1881年・1941年・2001年・2061年…

なので、しばらくは辛巳の年はなさそうです。

●仲秋
「ちゅうしゅう」と読みます。現代では9月になるとお月見の話題が登場しますがそちらは「中秋の名月」と書き「×仲秋の名月」ではありません。仲秋は旧暦八月全体を表す単語になります。
仲秋の本来の意味は、旧暦の秋である七・八・九月の真ん中という意味。現在の暦である太陽暦(グレゴリオ暦)に置き換えると約1ヶ月後と考えると色々帳尻が合います。旧正月が2月だったり、節分立春が冬真っただ中の2月に訪れるのと同じ理由です。

日本が欧米と同じ太陽暦を採用したのは1873年(明治6年)1月1日。ただしそれは太陽暦(新暦)のもので、それまでの日本で運用されていた天保歴(旧暦)に置き換えると明治五年(1872年)十二月三日。感覚的には十二月を2日間こなしたところで明日から正月ね、って感じです。改暦の布告は明治五年十一月九日(1872年12月9日)に出されたので、その時期であれば来年の暦(こよみ。現在のカレンダー)は販売されていたでしょうし、十二月は2日しか労働していないことを根拠に明治五年十二月に相当する月給が支払われない事例があるなど、社会の混乱はもちろん被害を被った国民が大勢いたそうです。

話を仲秋に戻しますと、旧暦七月→現在の8月頃が秋?いやいや、9月(旧暦八月=仲秋)としても暑いでしょという昨今ですが、太陰太陽暦を用いていた時代は七月(新暦8月)になると秋が訪れ始めていたということなのでしょうね。

施主名に見える伊豫屋彌兵衛は「いよややへえ」と読むのでしょうか。伊豫は愛媛県に相当する地域の旧國名であり、「豫」の字が常用漢字から外れたため、現在では伊予と書くのが一般的です。愛媛県から香川県にかけてのエリアでは、旧伊豫國の住民による寄進が多く見られます。

 

標石メモ

発見し易さ ★★★★★
文字の判別 ★★★★★
状態    ★★★★★
総評:66番札所雲辺寺を下山して67番札所大興寺へ向かう遍路道沿いにあり見つけやすい。標石に記されている字は大きく読み取りやすいフォントで、石自体の劣化が少ないのでほぼ完璧に解読することができる。

※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません

 

【「67番札所大興寺へのわかれ又の標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。