【高知市中心市街地】明治時代の旧30番札所安楽寺への遍路道を示す中務茂兵衛標石

高知市中心市街地に中務茂兵衛標石が残されていますが、現在の遍路の道順ではこの付近を通行しません。明治時代の旧30番札所安楽寺への遍路道を示しており、当時はこの道をお遍路さんが歩いていたことを物語る貴重な史跡です。

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高知市中心市街地で旧30番札所安楽寺を示す中務茂兵衛標石

奥に見えるマンションの辺りが高知駅という位置関係の場所に中務茂兵衛標石が残されている。

 

中務茂兵衛義教

中務茂兵衛 写真

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。

 

標石が立つ場所

高知市中心市街地で旧30番札所安楽寺を示す中務茂兵衛標石_遍路道

かつての遍路道はこの場所から右の道幅が狭いほうへ分岐し、その道をたどっていくと確かに旧30番札所へ向かって続いている。

標石が立っているのは、高知駅が近い高知市比島(ひじま)2丁目付近です。左右車道に挟まれた三角形の土地角にあり、標石は片側一車線の道路から分岐して細い路地へ向かうよういざなっています。

 

標石正面に表記されている内容

高知市中心市街地で旧30番札所安楽寺を示す中務茂兵衛標石_正面

茂兵衛さんが巡拝していた時代に存在した30番札所は妙色山安楽寺だった。


<正面>
右(指差し)
安樂寺

安樂寺→旧30番札所安楽寺(現・30番奥の院)


現在の高知市中心市街地に残されている中務茂兵衛標石の特徴として、現在の30番札所に相当する寺院の多くが「安楽寺」と表記されている点が挙げられます。神仏判然令に起因する廃仏毀釈運動によって廃寺になった30番札所善楽寺は復活にかなりの時間を要しました。


<善楽寺と安楽寺>
1868(慶応4年) 神仏判然令により善楽寺廃寺。本尊・大師像は29番札所国分寺へ移して30番札所を代行。安楽寺も同時期に廃寺となる
1875年(明治8年) 安楽寺再興。本尊が移され30番札所再興

1930(昭和5年) 善楽寺再興。有縁の阿弥陀如来像と29番国分寺に預けられていた大師像を迎え入れる。以降、平成6年まで30番札所が2つ存在することになる



1964(昭和39年) 両者協議を行い、善楽寺「開創霊場」・安楽寺「本尊奉安霊場」となる

1994(平成6年)1月1日 30番札所は善楽寺、安楽寺は30番奥の院となる

<中務茂兵衛>
1845(弘化2年)4月30日 誕生
1866(慶応2年)3月頃 四国八十八ヶ所巡拝開始
1888(明治21年)5月頃 100度目巡拝。このころ当標石建立
1921(大正10年)6月頃 香川県東かがわ市に最後の標石を建立
1922(大正11年)2月14日 死去


30番札所が2ヶ所存在し、当時巡拝していたお遍路さんが困惑していた。

とは数多くの書物などで紹介されていることですが、茂兵衛さんの標石に善楽寺の表記を見かけない点については、両者の年表を並べてみると理由が判明します。茂兵衛さんが四国八十八ヶ所巡拝を行っていた期間中は、巡拝最初期を除き30番札所が安楽寺の1ヶ寺なためです。善楽寺の再興には実に60年以上もの長い時間を要しています。
※かつての30番札所で現在の30番札所奥の院である安楽寺に関しては、以下リンクの記事で詳しく紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。

【30番札所奥の院安楽寺】明治時代初期に消えた30番札所を復活させた寺院と標石

なお、善楽寺の再興に際しては埼玉県にあった東明院を移転し善楽寺に改名した上で再興されました。

百々山東明院善楽寺(どどさんとうみょういんぜんらくじ)
現在も院号に旧寺名が見られます。

同様の再興方法と旧寺名が院号に残されるケースは27番札所神峯寺でも見られます。
※27番札所神峯寺の再興の経緯に関しては、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【27番札所神峯寺近く】土佐國最大の遍路ころがしへの順路を示す中務茂兵衛標石

 

標石右面に表記されている内容

高知市中心市街地で旧30番札所安楽寺を示す中務茂兵衛標石_右面

標石が指す方向にあるのは善楽寺、土佐神社、国分寺などで、この道は国分寺付近から分岐して伊豫國とも繋がっていた。


<右面上部>

國分寺

國分寺→29番札所国分寺


この道は30番札所が安楽寺であった時代は遍路道であり、高知から山を越えて愛媛県川之江(現・四国中央市)へ至る旧土佐北街道でもありました。

29番札所国分寺を出ると長宗我部氏の居城があった岡豊(おこう)地区を通り過ぎ、南国市と高知市境界の逢坂峠(おうさかとうげ)を越えて下りたところにあるのが土佐神社と現30番札所善楽寺で、現代の歩きお遍路さんはそれらを参拝した後、南の方角にある31番札所竹林寺を目指します。
茂兵衛さんの時代は土佐神社までは同様のルートと思われますが、土佐神社付近で方向を南へ変えずに、さらに西進するとこちらの標石がある場所に到達します。旧30番札所安楽寺へはここから約2kmの距離です。
旅の食住(泊)面を考えると市街地へ入ってくることで利便性は高まりますが、現30番札所善楽寺から次の31番札所竹林寺へはほぼ真南に進めば着くことを考えると、30番札所が安楽寺だった時代は歩行距離が今より長いことになります。

標石が残されている当地区から高知駅まで距離約1kmですが、高知駅の開業は大正13年(1924)11月のことなので、こちらの石が建てられた時期を含め、茂兵衛さんが巡拝していた時代は高知駅や高知県外と繋がっている鉄道(現・JR)は存在しておりません。

高知市中心市街地で旧30番札所安楽寺を示す中務茂兵衛標石_右面下部

いくつかの中務茂兵衛標石で目にすることができる施主リピーターの名が見える。


<右面下部>
讃岐國寒川郡〇
施主
岡田庄〇


讃岐國寒川郡→現・香川県さぬき市

寒川郡の岡田氏とわかればそれはおそらく標石リピーターさん。87番札所長尾寺の本堂前の標石に「岡田庄太郎」の名が登場します。そちらの石には岡田氏の在所が記されていないのですが、これで判明しました。
※87番札所長尾寺の本堂前の中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。

【87番札所長尾寺】「八十七番霊場」であることを示す本堂前にある中務茂兵衛標石

明治32年(1899)4月1日 大内(おおち)郡・寒川(さんがわ)郡が合併して大川郡誕生
平成14年(2002)4月1日 旧寒川郡の各町が合併してさぬき市誕生
平成15年(2003)4月1日 旧大内郡の各町が合併して東かがわ市誕生。大川郡消滅

旧寒川郡の範囲が現在のさぬき市、旧大内郡の範囲が現在の東かがわ市にほぼ相当しますが、境目の大銀杏がある五名地区だけは旧寒川郡でありながら昭和の合併時に旧大内郡の町村と合併して、現在は東かがわ市の一部になっています。
※境目の大銀杏に関しては、以下リンクの記事でご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。

【阿波-讃岐の県境「境目」】見事な紅葉、境目の大銀杏

 

標石左面に表記されている内容

高知市中心市街地で旧30番札所安楽寺を示す中務茂兵衛標石_左面

高知という土地条件、時の大名、竹林寺の僧が関わり合った高知の地名変遷。


<左面>

高智
臺百度目為供〇
周防國大嶋郡〇
施主
中務茂〇


標石全体が深く埋められているため全体的に下部の表記が隠れてしまっているのですが、重要な部分は地上に出ているので記載内容の判別は難しくありません。

中務茂兵衛「100度目/279度中」の四国遍路は自身44歳の時のものになります。

「高智」の表記は、制作者の意図は不明ですが、なかなかしゃれているなあという印象です。高知市中心市街地の地図を眺めてみると北の久万川と南の鏡川に挟まれた土地であることがわかります。

すなわち「河中(こうち)」。

長宗我部氏の時代に河中の大高坂山(おおたかさやま、現在の高知城がある山)へ居城を移そうと試みたようですが、周辺を川に挟まれた土地ゆえ川の氾濫が多く、折から降水量が多い当地において当時の築城技術では城の排水性などの問題をクリアできず、作りかけては止めて桂浜近くの浦戸城(うらどじょう)に移ったとされます。
江戸時代になり、山内一豊(やまうちかつとよ/1545-1605)が土佐一國を与えられると、長宗我部氏が作りかけて断念した大高坂山に築城を開始。1603年に本丸・二の丸の完成をもって「河中山城(こうちやまじょう)」と改称しました。山内氏は長宗我部氏が成し得なかった大高坂山への築城を達成しましたが、城下の水利面はまだまだ改善されておらず、この時代にも頻繁に洪水が起こったそうです。
その後、二代目藩主となった山内忠義(やまうちただよし/1592-1665)の時代に「高智(こうち)」に改められます。その時のエピソードに、山内忠義が30番札所竹林寺の僧に城下の洪水問題について相談を持ち掛けたところ、

「名称に河や水(さんずい)が付いているのは洪水が連想されて良くない。しかしながら読みまで変えてしまうと領民が戸惑う。そこで竹林寺の本尊である文殊菩薩の高徳な智慧にあやかって高智としてはどうか」

そのような提案を受けて改称されたという説があります。ほどなくして現在と同じ「高知」になりました。

地名…河中→高智→高知
城名…大高坂城→河中山城→高智城→高知城

 

標石裏面に表記されている内容

高知市中心市街地で旧30番札所安楽寺を示す中務茂兵衛標石_裏面

この標石が建立された年に、高知県出身で植物分類学の父と称された牧野富太郎博士の偉業が成し遂げられました。


<裏面>
明治二十壱年五月吉辰
蓮乃香能頼りし法の道志るべ


明治二十壱年五月は西暦1888年。同年、高知県出身の牧野富太郎(1862-1957)によって「日本植物志図篇」が刊行されました。当書物は日本初の植物図鑑といわれ、植物の絵は自身が描き印刷工場に出向いて自費で製本を行いました。そのあたりのエピソードは令和5年(2023)に放送されたNHK朝の連続テレビ小説「らんまん」にも登場しました。

1888-1891年 日本植物志図篇
1900-1911年 大日本植物志
1940年- 牧野日本植物図鑑 ※現行

当標石は裏面にも情報が刻まれていて添句もあります。

蓮乃香能頼りし法の道志るべ
「はすのかの たよりしほうの みちしるべ」と読みます。

河中、洪水と高知市は水利面での苦労は数多くあったのでしょうが、その分湿地を好む蓮が花咲く様子が当地では多く見ることができて、茂兵衛さん自身が心が和む経験をしたということかもしれませんね。

 

標石メモ

発見し易さ ★★★☆☆
文字の判別 ★★★★☆
状態    ★★★★☆
総評:現在の遍路道沿いになく意図して来なければ発見することができない。標石がやや深めに埋められているので下部が見えにくくなっているが、全体的に記載がしっかりしているので見えなくなっている部分に彫られている字を連想することができる。

※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません

 

【「高知市中心市街地で旧30番札所安楽寺を示す中務茂兵衛標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。