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地元では親しみを込めて「寺山」と称される第39番延光寺。その入口にあたる場所に、中務茂兵衛二百三十七度目の四国遍路で建立された標石が残されています。

第39番延光寺入口標石 立地

すぐ近くにも標石が残されているが、提供している情報の幅が若干異なる

 

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>

中務茂兵衛 写真

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。 22歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は歩き遍路最多記録と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。
明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。

 

標石の正面に表記されている内容

第39番延光寺入口標石 正面上部

古くは準公式的に「寺山」の呼称が用いられていたことがわかる

<正面上部>
右(指差し)
寺山

寺山→第39番延光寺(えんこうじ)
「寺山(てらやま)」は延光寺の別名。かつては専ら寺山と呼ばれていたようで、これまで自分が見た範囲で古い文系や標石で紹介される時は寺山の表記が殆どでした。今でも延光寺近隣を中心に、親しみを込めて寺山と呼ばれている気がします。

第39番延光寺入口標石 正面下部

右の列に播磨と見えるが、それ以外の記載内容は判別し辛い

<正面下部>
播磨國●●
施主 松本善平
妻 すみ

播磨國(はりまのくに)→現・兵庫県南西部
姫路市を中心とする兵庫県の南西部にあたる地域。瀬戸内海を挟んで向かい合う四国との距離は近く、昔から四国八十八ヶ所や小豆島八十八ヶ所への巡礼が盛んだったエリア。中務茂兵衛標石にも「播磨」の寄進者住所を頻繁に見かけます。街の名前が残念ながら判別することができません。

 

標石の右面に表記されている内容

第39番延光寺入口標石 右面

佐渡島島民らの標石との位置関係

<右面上部>
左(指差し)
足摺山

足摺山(あしずりさん)→現・第38番金剛福寺(こんごうふくじ)
「寺山」と同様、金剛福寺ももっぱら「足摺山」と記され、昭和以前に建てられた標石に関しては「金剛福寺」と表記されているものを見かけた記憶がありません。現在のように「●●寺」と公式表記が定まったのはいつからなのか、調べてみる価値がありそうです。

遠いほうに目をやると国道56号が見えます。その国道との合流地点右側(坂道のあたり)にあるのが佐渡島の島民らが寄進した標石。こちらの石とは100m足らずの距離に2つの中務茂兵衛標石が立っていることになります。
※国道56号沿いの標石に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。

北前船寄港で栄えた離島集落の住民が寄進した中務茂兵衛標石【39番札所「延光寺」入口】

両者を見比べてみると「足摺山」「寺山」の前後案内は同じですが、こちらの石はそれらの札所情報のみ。佐渡島島民らの標石は「中村」「宿毛」も記されています。想像するに、この場所を通るのはお遍路さんが主体なので石に記載する情報は四国遍路に特化した内容で良いと思いますが、佐渡島島民の標石が立っている場所は国道56号沿い。昔も今も中村と宿毛の行き来が頻繁に行われている道です。
宿毛は古くから九州西部との行き来があった港町。大分県南部等から船に乗って四国の宿毛に上陸、またはその逆の流れがあったはず。お遍路さんであれば延光寺まで来て、そこを八十八ヶ所発心の寺として四国遍路を始めたという人も少なくなかったのではないでしょうか。

第39番延光寺入口標石 右面下部

平仮名が刻まれているように見えるので、添句が記載されているのかもしれません

<右面下部>
●●

墓所の土台に隙間少なく立っているので、判別・撮影共に非常に困難。辛うじて右に「花」や左に「い」が見えます。添句が記されているのかもしれません。

 

標石の左面に表記されている内容

第39番延光寺入口標石 左面

二百度を超える巡拝晩年に建てられた標石

<左面>
二百三十七度目為供養建之
周防國大島郡椋野村住
願主 中●●

中務茂兵衛「237度目/279度中」の四国遍路は自身66歳の時のものです。200度越えの標石は個数としてそれほど多いわけではないので、発見すると嬉しくなります。
一番左の行。通常「願主 中務茂兵衛義教」と記されている部分が欠損して判別できなくなっています。ですがここまで情報が揃っていれば、ほかならぬ茂兵衛さんのものと言って良いと思います。

 

標石の裏面に表記されている内容

第39番延光寺入口標石 裏面

関西私鉄の雄・阪急電鉄発祥の年

<裏面>
明治四十三年三月吉辰

明治43年は西暦1910年。同年同月10日、箕面有馬電気軌道(みのおありまでんききどう)「梅田-宝塚・石橋-箕面」が開通しています。
同線は現在の阪急電鉄初代開通路線で、それぞれ「宝塚本線(たからづかほんせん)」と、途中の石橋駅(現・石橋阪大前駅)で分岐する「箕面線(みのおせん)」。名前に「有馬」が付いているように当初は大阪から有馬温泉への温泉行楽客目的で鉄道を敷設したものの、宝塚から先は急峻な六甲山地があり工事を断念。結果的に宝塚が終点になり今に至ります(後年バス路線として実現)。
その時代に私鉄が敷設される理由は集客面から大都市から観光地、とりわけ寺社(→当時旅行といえばお参りだった)へ向かう路線か、純粋に大都市間を結ぶ阪神電車のような形式がほとんど。箕有電車(きゆうでんしゃ)の沿線には、西国三十三所・第24番中山寺(なかやまでら)や西国三十三所・第23番勝尾寺(かつおうじ)のような巡礼で訪れる札所寺院はあったものの、当時は田園風景が広がるエリアで大きな集客を見込むことができるものは取り立てて存在しなかった。そこで同社の専務だった小林一三(こばやしいちぞう/1873-1957)は、鉄道を敷設した沿線の土地を買収して住宅開発。住宅分譲を行って乗客を増やし、鉄道の終点には箕面動物園、宝塚温泉を開業。大正2年(1913)には宝塚唱歌隊(たからづかしょうかたい、現在の宝塚歌劇団)を創設するなど、鉄道沿線開発の先駆けとなった。

この頃になると八十八ヶ所がある四国にも鉄道は開業していて、愛媛県の伊予鉄道(1888年)、高知県の土佐電鉄(1904年)、香川県の琴平電鉄(1911年)など。茂兵衛さんが巡拝の折に鉄道を利用したかどうかは定かではありませんが、交通の発達や街の賑わいを遍路途上で目に身に実感していたのではないかと想像します。

 

【「第39番延光寺入口の標石」 地図】

 

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野瀬 照山

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。