【19番札所立江寺→20番札所鶴林寺】山奥と当地の住民が協力建立した中務茂兵衛標石

20番札所鶴林寺を目指して平地を進んでいるとやや小型の中務茂兵衛標石と出会います。施主氏名が数多く記載されていますが、山奥の集落で暮らす住民らの寄進により、当地の住民が協力して建てられた石であることがわかります。

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20番札所鶴林寺への道中の山奥と当地の住民が協力建立した中務茂兵衛標石

民家の塀に隠れるように立っていて、この路地を右折するわけではないので見落としやすい標石です。

 

中務茂兵衛義教

中務茂兵衛 写真

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現・山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。

 

標石正面に表記されている内容

20番札所鶴林寺への道中の山奥と当地の住民が協力建立した中務茂兵衛標石_正面

立江寺と書かれているのは左面で後ほど触れることして、壁に近い正面部分から観察します。


<正面>
左(袖付き指差し)
二十番鶴林寺
臺百四十九度目為供養
周防國大島郡椋野村
施主中務茂兵衛義教


中務茂兵衛「149度目/279度中」の四国遍路は自身52歳の時のものになります。

こちらの面を正面と同定した理由は、

・次の札所の方角が描かれている事

その点に尽きます。正面=主たる情報ということで、後年この付近を通行するお遍路さんが一番知りたい情報は次の札所、すなわち20番札所鶴林寺の方角だと思います。石の横にある家屋の外壁がいつ建造されたものかはわかりませんが、建立当初から正面が見づらいことは考えにくいため別の場所からの移設でしょうか。
となると以前の場所はどこなのかとなりますが、現在この石が立っているすぐ先に三叉路があり標石立地の前例でいけば、そこの分かれ又にあったのかなと思われます。仮にその分かれ又に当面を向けて建てると20番札所鶴林寺(正面)・19番札所立江寺(左面)の方角が合います。

 

標石右面に表記されている内容

20番札所鶴林寺への道中の山奥と当地の住民が協力建立した中務茂兵衛標石_右面

当年から閏年にはオリンピック競技大会が開催されるようになった(一部例外年あり)。


<右面>
明治廿九年七月吉辰


明治29年は西暦1896年。同年4月6日から15日までギリシアのアテネでオリンピック競技大会が開催されました。当大会は近代五輪最初の大会として開催され14ヵ国・241名で競われたことが記録されています(参加国・人数には諸説あり)。
この頃の日本はまだオリンピックへの参加はなく、1912年にスウェーデンのストックホルムで開催された第5回大会がアジアの国家としても初めてのオリンピック大会出場になりました。

 

標石左面に表記されている内容

20番札所鶴林寺への道中の山奥と当地の住民が協力建立した中務茂兵衛標石_左面

最も情報量が多く一番最初に目にするのがこちらの面。


<左面>
右(袖付き指差し)
十九番立江寺
阿波国那賀郡坂州村
木頭坪根●蔵
施主松元禎蔵
上田福本大西
和田●●●●●
中東延八賜?●


阿波国那賀郡坂州村木頭(あわのくになかぐんさかしゅうむらきとう)→現・徳島県那賀郡那賀町

施主住所に記されている那賀郡には21番札所太龍寺があります。
とは言え同町は平成17年(2005年)3月に那賀郡5町村が合併して発足した町で、徳島県で三好市に次いで第2位の面積を持つ大きな自治体。施主住所の坂州村木頭と太龍寺は大きく離れています。

明治22年(1889)10月 坂州木頭村成立
昭和18年(1943)11月 坂州村に改称
昭和30年(1955)4月 合併により木沢村発足
平成17年(2005)3月 合併により那賀町

標石が建てられた時期の正式な自治体名は「坂州木頭村」で、平成の大合併前の自治体名は木沢村(きさわそん)。日本の滝百選の一つに選ばれている大釜の滝など大小100を超える滝を有する山間の村でした。中央行「木頭」の後に「坪根」とあり木頭に続く小字名のように思いましたが、全体的に見て関わっている人物が多い標石のように見受けられますので、坪根は人物の姓ではないかと推察します。
左行下部に「中東延八」と思われる人物名を見ることができますが、木沢村最後の村長(~2005年)が中東利延氏で石に記されている中東氏の氏名と共通点があります。同氏の先祖も石の建立に尽力した一人かもしれません。

なお合併時に那賀町に加わった同じ那賀郡の自治体に(旧)木頭村があり読みも同じですが、その木頭村と木沢村木頭は別物です。そちらは、

明治22年(1889)10月 海部郡奥木頭村成立
昭和8年(1933)1月 木頭村に改称
昭和26年(1951)1月 海部郡から那賀郡に所属変更
昭和32年(1957)1月 合併により(新)木頭村発足
平成17年(2005)3月 合併により那賀町

元から那賀郡所属の旧木沢村と異なり、旧木頭村は元々23番札所薬王寺がある日和佐等と同じ海部郡(かいふぐん)に所属していた地域で、海からも遠いですが県都である徳島市よりも隣県の高知市のほうが近い(但し高い山に隔てられている)場所。ブランド柚子として知られる「木頭ゆず」はこちらの木頭です。また地域振興の形として頻繁に話題に上る「未来コンビニ」は旧木頭村にあります。

 

標石裏面に表記されている内容

20番札所鶴林寺への道中の山奥と当地の住民が協力建立した中務茂兵衛標石_裏面

裏面の記載は下部に人物名が記されているのみですが、氏名の上にごんべんが見えるので「話」の字→世話人の事を表しているのかなと感じました。


<裏面>
●七?若木千代吉
●●中駒吉
●八?水口春茂


これらは沼江(ぬえ)集落の住人らの氏名で、プロジェクトの発起人(=中務茂兵衛)に賛同して、協賛者を募り(=旧木沢村の住民)、土地の提供や建立に尽力したのが当面に記されている人物ら(=沼江の住民)という関係性でしょうか。
全ての情報を読み取ることができないのであくまで推察の域にはなりますが、個人の資金だけでは難しかったであろう中務茂兵衛標石建立を、共同で実現させた石といえそうです。

 

標石メモ

発見し易さ ★★☆☆☆
文字の判別 ★★★☆☆
状態    ★★★★☆
総評:19番札所立江寺から20番札所鶴林寺へ向かう遍路道上ではあるけれど、この道を回避するバイパスを通行するほうが近道でわかりやすいので、敢えて標石がある旧道をたどらなければこちらの石に出会うことができません。また民家の塀に隠れていて行く先に見えてくるものではないので、通り過ぎて気が付かず進んでしまいます。
文字はしっかりしていてどのような情報が記載されているのか概要を把握することは難しくありませんが、文字詳細となると特に施主氏名の部分がやや詰め込んだ感があり解読難易度が上がります。正面部分は塀が近くて目視・撮影共に難しくなっています。

※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません

 

※この標石がある場所から20番札所鶴林寺方面に少し進んだ先の交差点脇にある標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【19番札所立江寺→20番札所鶴林寺】沼江不動と並んで立つ中務茂兵衛標石

 

【「20番札所鶴林寺への道中の山奥と当地の住民が協力建立した中務茂兵衛標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。