高知駅や高知城が近い高知市中心市街地にある洞ヶ島公園内に中務茂兵衛標石が残されています。明治時代に旧30番札所安楽寺と31番札所竹林寺の道中に設置され、高野山出張所への参拝も勧める役割を果たしていたと思われます。
中務茂兵衛義教
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石が立つ場所
洞ヶ島は「ほらがじま」と読みます。高知駅と入明(いりあけ)駅の間に位置する街区で、最寄り駅としては入明駅のほうが距離が近いものの高知駅から歩けなくもない距離です。JRを利用して高知城へ向かう場合は入明駅が最寄り駅になるので、洞ヶ島公園から高知城は歩いて行ける距離にあるということになります。
なお、こちらの標石については移設されたものであるため、方角については参考程度のものとお考えください。
標石正面に表記されている内容
<正面>
右(指差し)
五臺山
高野山
壱百七四度為〇
周防國大島郡〇
施主
中務茂兵〇
五臺山→31番札所五台山竹林寺
高野山→現・高野寺
こちらの標石は正面(31番・高野山出張所)・右面(旧30番)・左面(29番)と全面に行先が記載されています。その中でも正面と右面の扱いが手厚い印象。そのことから考察すると、元々石が立っていたのは旧30番札所安楽寺と31番札所竹林寺の間になるのかな、と考察します。
※30番札所の変遷に関しては、以下リンクの記事で詳しくご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。
【30番札所奥の院安楽寺】明治時代初期に消えた30番札所を復活させた寺院と標石
高野山の表記は、明治16年(1883)7月に開基された高野山真言宗の高知における拠点のことを示していると思われます。
幕末に焼失した金剛峯寺の復興資金を得るため諸国を巡錫していた高野山の僧侶が高知を訪れた際、廃仏毀釈により荒廃した高知の寺院の惨状を目にして建立されたものです。その土地には空き家になっていた建物があり、それを買い受けて寺院を建立することになりますが、その空き家の元の住民はかの有名な板垣退助(1837-1919)です。同氏の生家があった場所が高野山出張所として生まれ変わり、現在は高野寺を名乗っています。
高野山出張所は30番札所が安楽寺だった時代は31番札所竹林寺へ向かう遍路道中にあり、四国八十八ヶ所の番外霊場として茂兵衛さんらから参拝が奨励されていたようですが、現在はお遍路さんがその場所を通ることは稀で、高野寺が四国八十八ヶ所参りと関連した話題で語られることは少ないように感じます。
※同じく高野山出張所の表記を見ることができる中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。
【30番札所奥の院安楽寺近く】高知城近くにある中務茂兵衛標石から読み取る当時の四国遍路界
【「高野寺」 地図】
中務茂兵衛「174度目/279度中」の四国遍路は自身56歳の時のものになります。
標石右面に表記されている内容
<右面>
左(指差し)
安楽寺
施主
当國香〇郡〇〇村
阿〇〇庵主
六十四番前神寺〇
安楽寺→旧30番札所安楽寺
施主は当国、すなわち土佐國にある香の字がつく郡ということになりますが、こちらは「香美郡」しかありません。現在の香美市や香南市に該当する郡域を持ち、旧郡内には四国八十八ヶ所霊場の札所は28番札所大日寺が存在します。
それに続く施主の部分がこれまた難解で「庵主」「六十四番前神寺」とあります。庵(あん)とは小さな住居のことで、そこに僧尼が暮らすと仏教的な意味を持ち小豆島八十八ヶ所のように札所になることもあります。
前神寺が愛媛県西条市にある64番札所前神寺のことを表すのであれば一つ思い浮かんだのが、この標石が建てられた時代に前神寺が復興していたのかという点。石鎚神社の別当寺の一ヶ寺で愛媛県の東予地方も土佐と同じく廃仏毀釈運動が激しく、60番札所横峰寺や64番札所前神寺は寺を廃して神社に成らざるを得なかったり、再興に際して従前と同じ名称が許されない時期があったためです。
1868(慶応4年) 神仏判然令により前神寺廃寺。この時代までは現在の石鎚神社の敷地にあった
1878(明治11年) 現在地での再興が許されるが、旧称を使うことは許されず前上寺の名前で再興
1889(明治22年) 前神寺の名称に戻る
左面に建立年度が記されているのでそれを見ると明治33年(1900)のもの。ということは前神寺は明治以前の名で存在している時期でした。
そうなるとここでの前神寺はどういうことなのか。これまでの標石で施主や寄進者に寺院が登場する例としては、以下リンクの83番札所一宮寺の西にある足摺山の僧侶らしき人物が寄進した内容が記されている中務茂兵衛標石や、
【83番札所一宮寺西の路傍】札所順とは異なる行先を示す中務茂兵衛標石
四国四県で広く見ることができる奥の院(別格13番仙龍寺)の参篭を勧める内容が記載された石があります。
【64番札所前神寺→65番札所三角寺】かつての金毘羅街道と新しいバイパスとの交点の大きい中務茂兵衛標石
当標石を寄進した人物は何らかの形で64番札所前神寺と縁があることが想像できますが、前神寺の字の下、ほとんど判別することができないのですが「ぎょうにんべん」の漢字であることをわずかに解読することができます。寺院関係でぎょうにんべんの漢字で想像できるものの一つに「得度(とくど)」があり、仏門に入る儀式のことを意味します。そうだと仮定するとこちらの標石を寄進したのは、前神寺で得度して香美郡内にある庵を管理している人物、ということでしょうか。
標石左面に表記されている内容
<左面>
國分寺
ぎやく
明治三十三年二月
國分寺→29番札所国分寺
明治33年は西暦1900年で19世紀最後の年。その前年に制定された北海道拓殖銀行法に基づき標石が建立された同年同月に北海道拓殖銀行(ほっかいどうたくしょくぎんこう)が設立されました。
こちらは日本勧業銀行と同じく政府主導で設立された特殊銀行の位置付け。農工業者などへ融資を行い事業を通じてその土地の発展を促す趣旨は勧銀と同様ですが、広大で開拓途中の北海道には専門の特殊銀行が必要と考えられました。勧銀と同じく金融債を発行する権限を持ち、道内外から募ったその資金の融資を通じて北海道の農工業発展に寄与しました。拓殖(たくしょく)とは人が住んでいなかった土地を切り開いて人が住み着くことを意味します。
戦後の拓銀は都市銀行に事業継承され北海道地盤唯一の都銀として道民を中心に親しまれていましたが、バブル期に拡大路線を取ったことなどが災いして平成9年(1997)11月に経営破綻。事業は北海道第二地銀の北洋銀行などに継承されました。現時点で都市銀行が経営破綻した唯一の例になっています。
標石メモ
発見し易さ ★★★☆☆
文字の判別 ★★☆☆☆
状態 ★★★☆☆
総評:現在の遍路道沿いになく意図して来なければ発見することができない。石の破損は少ないが字の彫りが浅く書体の特性もあり内容の判別が難しい。
※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません
【「洞ヶ島公園に移設されている中務茂兵衛標石」 地図】