四国八十八ヶ所霊場88番札所大窪寺を出て、歩いて1時間強。徳島県との県境を跨ぐ「境目」に中務茂兵衛の標石が残されています。こちらの石は茂兵衛さんの人生の中で最晩年に建立されたものです。
中務茂兵衛さんメモ
明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し回られた方で、周防國大嶋郡椋野村(現山口県周防大島町)出身。
18歳の頃に周防大島を出奔、一度も故郷に戻ることなく四国を回る事279回。バスや自家用車が普及している時代ではないので、徒歩での記録。 回った回数は歩き遍路では最多記録と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。
明治19年(1886)、自身42歳・88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。
—– こちらの記事に登場する主な地名・単語
標石(しるべいし)
周防國大島郡椋野村(すおうこくおおしまぐんむくのむら)
八丁坂(はっちょうざか)
吉野川市川島(よしのがわしかわしま)
潜水橋(せんすいきょう)
善入寺島(ぜんにゅうじじま)
與田寺(よだじ)
弘法大師御再来遺跡(こうぼうだいしごさいらいゆいせき)
白鳥神社(しろとりじんじゃ)
三本松(三本松)
撫養(むや)
阿讃國境地点にある標石
大窪寺を出て1時間少し来たところで 遍路道は "八丁坂" と呼ばれる坂道に差し掛かります。そこを越えて下りてきた地点でこちらの香川県道・徳島県道2号津田山川線と合流。
この道は左(北)へ行くと高松自動車道・津田の松原サービスエリア付近へ。右(南)へ行けば吉野川市川島に至る道ですが、吉野川を渡る川島橋は潜水橋。すなわち10番札所切幡寺から11番札所藤井寺へ向かう遍路道と重複する。吉野川最大の中州・善入寺島の辺りです。
八丁坂は道の状態があまり良いとは言えず、すぐ近くに巻き道(車道)・五名トンネルとルートが複数あるため、夏場など草木が高い時期は通行が困難となるので注意が必要。
立っている位置は厳密には徳島県。
奥の家は徳島県。停まっていた自動車のナンバープレートが徳島でした。
中務茂兵衛・最晩年の標石
為二百九十度目巡拝紀念
周防國大島郡椋野村
願主 中務茂兵衛義教
こちらの石の特徴として
■ 279度目・紀念
56年に渡る茂兵衛さんの遍路人生の中で 最後に立てられた二基の標石の一つ。どちらも同じ東かがわ市と記録されている。大正10年(1921)6月、茂兵衛さん77歳。
翌年 280度目の結願を迎えることなく大往生を遂げたため、こちらの標石が最後のものとなった。
その時期を察していたのか、 従来の標石は 「●●●度目為供養」 なのが、こちらは 「二百七十九度目巡拝紀念」 の表記。
個人的には彼の心境が知りたい。
※ 「東かがわ市にあった」と記録されている事(→ 現在立つ場所は厳密には徳島県阿波市)、後述の事情のため元々の場所から少し変わっている様子
■ 楷書体
彼の遍路人生の中では最も新しい標石の一つ。時が流れるうちに時代は楷書が一般的になっていたのかもしれません。
大くぼ寺へ一里餘
●●● →根本部分の判別不可能
指差しの方向から考察するに、元々は奥の法面のあたりの場所にあったのではないだろうか。
巡拝大べんり
八十八番奥の院與田寺
弘法大師御再来遺跡 へ三里
白鳥神社 へ四里
三本松ヨリ
毎日午後二時
大阪神戸
むやへ汽舩
でます
建てられた時期と場所ならではの情報。
こちらの航路は大阪商船が開設した "大阪撫養線" 。明治33年(1900) 運航開始。当初は兵庫・沼島・福良・撫養・引田・三本松に寄港していた。
茂兵衛さんが四国を回り始めた頃にはまだなかった航路だが、時代と共に更新されていく便利情報をしっかり把握していた様子。
※ 大阪商船 → 攝陽商船 → 関西汽船 → 現・フェリーさんふらわあ
※ 別の標石に同じ航路で "午前十一時" となっているものがあり、午前午後はともかく 「一一時」とも取れる
新しいからか、結願を終えてからという場所柄か、情報量がとても多いのがこちらの標石の特徴です。
巡拝大先達・中務茂兵衛
県道2号を真っ直ぐ行けば 10番札所切幡寺。
大銀杏の先で左折すれば與田寺→白鳥神社→大坂峠→3番札所金泉寺。標石に情報がある当時運航されていた汽船に乗る場合はこちらでした。
改めて茂兵衛さんが後世の遍路に伝えた情報の大きさを知ることができる。
右に出る者がいない、誰もが認める巡拝大先達です。
※ご紹介した標石近くには徳島県天然記念物「乳出の大銀杏」があり、以下リンクの記事でご紹介しています。
【「中務茂兵衛 最後の標石(境目)」 地図】