79番札所天皇寺のほど近くの分岐点、崇徳上皇の伝説がのこる「八十場の霊泉」の前に、中務茂兵衛標石が残されています。札所名ではなく番号で記されているのはどのような理由が考えられるのでしょうか。
中務茂兵衛義教
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石正面に表記されている内容
<正面>
右(指差し)
第七十九番霊場
第七十九番霊場→79番札所天皇寺
79番札所天皇寺がある香川県坂出市は崇徳上皇(すとくじょうこう)配流の地。その出来事にちなみ寺号に天皇と付いています。
平安時代後期に皇位継承問題等を原因として第75代崇徳上皇と第77代後白河天皇が争った保元の乱(1156年)。敗れた崇徳上皇は讃岐國に配流となりこの地で崩御しました。崩御したあと、都からの沙汰を待つ間、遺体を保存するために浸していると、まるで生きているがごとくだったという伝説が残るのが、この標石が立つ「八十場の霊泉」です。
保元の乱は、主な登場人物は平清盛、源義朝(頼朝・義経の父)で、学校で習う日本史では「源平合戦初期」と紹介されることがありますが、保元の乱の時点では清盛・義朝はどちらも後白河天皇方。後に源氏vs平家として幾度も合戦を繰り広げることになる両家は共に後白河天皇方につき、崇徳上皇勢力を撃破しました。保元の乱はその解決のために武士を重用したことで武家が力をつけ、江戸幕府終焉まで約700年続く武家政権へ繋がっていった「武家台頭のきっかけになった」が適切な感じです。
歴史が動いたのは保元の乱鎮圧後の報酬の件。それは平清盛に厚く、源義朝は思うような褒美を得ることができなかった。その不満が後に後白河天皇を幽閉し、その一派が居住する屋敷を襲撃する平治の乱(1160年)へ繋がっていきます。平治の乱の首謀者である義朝は処刑され、嫡男である頼朝は伊豆國へ配流になりました。
源氏平家の争いついて、登場初期から常に争ってきた永遠のライバルのようなイメージが先行しますが、実際には後白河法皇に翻弄され対立を招いたともいえます。頼朝は策謀家である後白河法皇を「日本一乃大天狗」と揶揄しています。
話を標石に戻しまして、石への記載が札所の番号だけで名称がついていない点を掘り下げてみます。
こちらの標石が立てられた時代は第79番が当地に復活した直後です。明治時代以前の79番札所摩尼珠院妙成就寺(まにしゅいんみょうじょうじゅじ)は神仏判然の令によって明治初年に廃寺となり、異なる場所にあった高照院(こうしょういん)に札所機能が移転していました。その地で廃仏毀釈の嵐が収まるのを待って、旧来の場所に復活したのは明治20年(1887年)頃。現在の天皇寺が「高照院」「高照院天皇寺」と表記されることが多いのは、その経緯によるものです。
これまで標石を見てきて、茂兵衛さんが四国遍路を行っていた時代の四国八十八ヶ所霊場は、札所番号より寺号もしくは通称で表されることが多いように感じておりますが、79番札所の名称についてはこの時代そのように曖昧な部分があったので、寺号などで表さず札所番号で記したのかもしれませんね。
標石右面に表記されている内容
<右面>
左
道場寺
為先祖代々
施主
東京北品川本宿
金崎彦兵エ
話題には事欠かない記載内容になっている面。上部下部とわけて紹介したいと思います。
<右面上部>
左
道場寺
踊りはね念仏申す道場寺拍子をそろえ鉦を打つなり
78番札所郷照寺の御詠歌に現在もその名が登場する道場寺。四国八十八ヶ所で唯一「時宗(じしゅう)」と「真言宗」が共存する寺院です。
天正の兵火(1576-1585念)により失われていた寺を、江戸時代初期に高松藩主・松平頼重が再興した際に現在の寺号に改めた記録が残されていますが、依然として旧称で呼ばれることが多かったようで、茂兵衛さんの時代でも旧称のままが名の通りが良かったということなのかもしれません。しかしながら道場寺の字は石が立った後に、既にあった刻字の間に収まるように横に彫ったようにも見えます。
思い返すと、
67番札所大興寺は小松尾寺
78番札所郷照寺は道場寺
79番札所天皇寺は高照院
ほか
讃岐の八十八ヶ所は旧称・通称が浸透している札所が多いですね。
<右面下部>
東京北品川本宿
金崎彦兵エ
施主居住地の「北品川」は東海道の最初の宿場である品川宿(しながわじゅく)の入口。その宿場の北寄りに位置することから北品川です。しかしながら後年建設されターミナル駅として知られる品川駅は、ここにはなくそれより北。そちらは現在の住所では品川区ではなく港区高輪になります。
鉄道黎明期によくある汽車が走ると火の粉で家が焼けるから反対、ということでしょうか。品川宿中心部に駅を設置せず、北品川の北にある高輪の地に品川駅が誕生しました。明治5年(1872年)10月15日の出来事ですが、この日が我が国において初めて乗客を乗せた鉄道が走った日になります。
ちなみに京浜急行に北品川駅という駅がありますが、開設当初の駅名は品川駅。官営鉄道の品川駅に延伸する際に地名を取って北品川駅に改称しました。でないと品川駅が連続しますしね。
どうして高輪に設置することになった駅を品川の名前にこだわったのか気になります。
※同じ施主の標石に関しては、以下リンクの記事でご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。
【76番札所金倉寺門前】金倉寺山門で見ることができる規格外の中務茂兵衛石柱[右]
標石左面に表記されている内容
<左面>
左
高松
百度目為供養建之
周防國大島郡椋野村
願主中司茂兵エ義教
中務茂兵衛「100度目/279度中」の四国遍路は自身44歳の時のものになります。
こちらの石の特徴として「左」を記した面が2面ある点です。標石が立っている場所は例に漏れず分岐点。旧丸亀街道・旧高松街道から79番札所天皇寺への分岐で迷うことがないよう、そのわかれ又に設けられたものと思われます。
もう一つの特徴として「衛」の字に「エ」を当てていることでしょうか。そのように発注したのか、石工の特徴なのか、そこは分かりませんが、画数の多い漢字なので彫るとなると容易ではありません。字自体が大きくなってしまうか、彫る部分が多いと時間が経てばそこから削れて字が見えにくくなる。その点「エ」「ヱ」であればシンプルです。こちらの標石は全体的に字の判別が容易な状態で立っていますが、見やすいように工夫して作られたのではないかと思えるほど状態が良いです。
標石裏面に表記されている内容
<裏面>
明治二十一年五月建之
添句あり
明治21年は西暦1888年。
100度目の標石はいずれも同年5月であることから、100周達成を機に一括で発注したのかなと感じます。また100度目の石は香川県に多いことも特徴です。
当面には建立年度と合わせて添句が記されておりますが、ご覧の通り植物が生い茂っており写真に収めるのは不可能でした。近づくと「何か書かれてる」程度であれば目にすることは可能です。
この場所は「八十場(やそば)」と呼ばれる場所で泉が湧いています。その湧水を用いて作られているのがところてん。店を運営する清水屋さんは創業二百年余りという老舗ところてん屋さんです。
※清水屋に関しては、以下リンクのtabijiさんの記事で紹介されていますので、こちらもぜひご覧ください。
【清水屋】八十場の霊泉の隣でお遍路さんを癒し続ける老舗茶屋の名物ところてん
79番札所天皇寺の成り立ちに深く関連している崇徳上皇の伝説が残る「八十場の霊泉」は、昔からお遍路さんが足を休め、お寺へと分岐していく拠点であったことでしょう。その歴史を中務茂兵衛標石が現代にも伝えています。
【「八十場の霊泉前の中務茂兵衛標石」 地図】