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讃岐東部の東かがわ市には倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)と所縁が深い「水主神社」があります。
この神社には大和との関係を明確に示すレイラインの構造が残されています。

大和三輪山の大物主との神婚説話で有名な倭迹迹日百襲姫

前回の記事では、結願寺である88番札所「大窪寺」の境内と周辺に潜むレイラインをご紹介しました。
※大窪寺のレイラインに関しては、以下リンクの記事をぜひご覧ください。

倭迹迹日百襲姫の源流を示す讃岐のレイライン【「大窪寺」編】

大窪寺から北東へ10kmあまり行くと、街道沿いに広い境内を持つ水主神社があります。
ここは、式内社の「水主神社(讃岐国・大内郡)」に比定されている古社で、創建は孝霊天皇の時代と伝えられています。
祭神は倭迹迹日百襲姫で孝霊天皇の皇女というのが通説です。

倭迹迹日百襲姫は、日本書紀に記された大和三輪山の大物主との神婚説話で有名です。

三輪山の麓に住んでいた倭迹迹日百襲姫は、三輪山の神である大物主と結婚しましたが、大物主は夜にしか現れず、その姿をはっきりと見ることができません。
そこである日、倭迹迹日百襲姫は大物主の姿が見たいと言います。
大物主は、それに答えて、明日の朝、枕元にある櫛箱を開けてみろと言いました。

翌朝、倭迹迹日百襲姫が櫛箱を開いてみると、そこには小さな蛇がいました。
この蛇はたちまち若者に変身しました。
これを見た倭迹迹日百襲姫が驚き叫ぶと、大物主は恥をかかされたと三輪山へ帰ってしまいます。
倭迹迹日百襲姫は驚いて腰を抜かしましたが、そのとき箸が陰部を突いて亡くなってしまいます。
そして、箸墓に葬られたとされます。

これは日本神話の中でもかなりポピュラーな話ですから、ご存知の方も多いと思います。
ところが、水主神社には、倭迹迹日百襲姫の神婚よりかなり先立つ時代の話が伝えられています。

境内の案内には、以下のような伝説が記されています。

「弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返され、水主神社の祭神倭迹迹日百襲姫は、この争乱を避けて、この地に来られたと伝えられています。
姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています。
境内は県の自然環境保全地域に指定され、付近からは 縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見され、山上には姫の御陵といわれる古墳もあり、宝蔵庫には多くの文化財が納められています。
社殿はすべて春日造りで統一されており、社領を示す立石は大内・白鳥町内に今も残っています。
與田寺へ向う途中の弘海寺付近には昔有名な「石風呂」があり、宿屋が栄え、「チンチン同しに髪結うて、水主のお寺へ参らんか。」とこどもたちが歌ったほどにぎやかな土地でありました」

降雨をもたらしたというのはともかく、水源を教えたという話からは、古代の鉱山技術者の姿にオーバーラップします。
水脈探しは鉱物資源探査に通じ、鉱山技術民は水神を祀るのが常でした。
水主神社には、最澄が参籠したり、空海が境内奥に閼伽井を掘っていることなども、その関連性を連想させます。
倭迹迹日百襲姫が疎開してきたのであれば、当然、疎開先で宮を築き、環境を整えるための技術者を伴っていたでしょう。

境内には石船や飛鳥の須弥山石に似た立石が祀られていますが、これは倭迹迹日百襲姫が水と関わりが深いことを物語っています。

境内に置かれた石舟。倭迹迹日百襲姫が船で移動したことを記念するモニュメントだろうか。

境内に置かれた石舟。倭迹迹日百襲姫が船で移動したことを記念するモニュメントだろうか。

これも境内にある石塔。飛鳥の須弥山石に似ている。須弥山石は古代の噴水と推定されているが、やはり水に因んだモニュメントだろうか。

これも境内にある石塔。飛鳥の須弥山石に似ている。須弥山石は古代の噴水と推定されているが、やはり水に因んだモニュメントだろうか。

境内の東にある水神を祀った祠は、空海が建立した。

境内の東にある水神を祀った祠は、空海が建立した。

 

倭迹迹日百襲姫の足跡を指し示す水主神社

境内は虎丸山、本宮山、那智山の水主三山と呼ばれる三山が形作る三角形の中心に位置しています。
水主三山は熊野三社に例えられ、虎丸山は新宮神社(伊邪那美命)、本宮山は本宮神社(早玉男命)、那智山は那智神社(事解男命)がそれぞれ当てはめられています。
これは熊野三社を勧請したもので、もともとここが修験道場として栄えていた場所であったことがわかります。

水主三山が結界を形作るように、これを結んだ三角形の中心に水主神社が位置している。

水主三山が結界を形作るように、これを結んだ三角形の中心に水主神社が位置している。

水主神社の社殿は参道方向を真っ直ぐ向き、その参道は夏至の日出方向を正確に指しています。

本殿の向きは参道と同じで、夏至の日出方向を指している。

本殿の向きは参道と同じで、夏至の日出方向を指している。

参道入り口から水主神社本殿方向は、方位角244°で、冬至の入日方向になる。

参道入り口から水主神社本殿方向は、方位角244°で、冬至の入日方向になる。

このラインを延長していくと、倭迹迹日百襲姫の上陸地と伝えられる近くを通り、さらに海上を伸ばしていくと、ぴったり淡路島の伊弉諾神社に達します。
伊弉諾神社は、倭迹迹日百襲姫の一行が中継地として立ち寄った場所とされています。
さらにそのままラインを伸ばすと淀川河口に達します。

古代から近世にかけて、淀川は内陸と海を結ぶ主要なルートでした。
ここから川を遡っていくと、桂川と宇治川、木津川の三川の分岐に達します。
ここの辺りには石清水八幡宮があります。
石清水八幡宮は全国各地に勧請されて分社がありますが、山間の地に創建されたこの神社が広く各地に伝播したのは、淀川の水運があったからでした。

この分岐から奈良方面へと下る木津川に入ってしばらく南へ進むと「水主」という地名が現れます。
ここは、水主神社から伸びたライン上に当たります。
そのまま木津川を南下していくと、川は木津で直角に東に曲がります。
ここは奈良街道との接続部分で、今度は街道に沿って南下すると、今は孝霊天皇神社があるかつての孝霊天皇の宮「黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)」に行き着きます。

つまり、水主神社の参道は、倭迹迹日百襲姫が戦乱を避けて疎開してきたとされるルートを正確に指しているのです。
水主三山が描く三角形と合わせると、この地をピンポイントで目指してやってきたことを示す矢印のようにも見えます。

水主神社が指し示す夏至の日出方向にラインを伸ばすと、倭迹迹日百襲姫の壮大な移動ルートが浮き彫りになる。

水主神社が指し示す夏至の日出方向にラインを伸ばすと、倭迹迹日百襲姫の壮大な移動ルートが浮き彫りになる。

讃岐に入った倭迹迹日百襲姫が、讃岐の中でさらに移動した足跡を物語る史跡に関して、以下リンクの記事につづきます。

倭迹迹日百襲姫の源流を示す讃岐のレイライン【「田村神社」「船山神社」編】

 

【「水主神社」 地図】

 

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内田一成

聖地と呼ばれる場所に秘められた意味と意図を探求する聖地研究家。アウトドア、モータースポーツのライターでもあり、ディープなフィールドワークとデジタル機器を活用した調査を真骨頂とする。自治体の観光資源として聖地を活用する 「聖地観光研究所--レイラインプロジェクト(http://www.ley-line.net/)」を主催する。