86番志度寺から87番奥の院玉泉寺を経て87番長尾寺へ向かう道中、川に差し掛かる橋のたもとに中務茂兵衛標石が立っています。記載内容には、複数の標石を寄進している大阪の施主の信仰の形が表れています。
中務茂兵衛義教
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石正面に表記されている内容
86番札所志度寺から87番札所奥の院玉泉寺を経て、87番札所長尾寺の約2km手前、鴨部川(かべがわ)を渡る広瀬橋のたもとに中務茂兵衛標石が残されています。
※玉泉寺周辺の中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。
【87番札所奥の院玉泉寺】弘法大師の浮彫が特徴的な大きなサイズの中務茂兵衛標石
【87番札所奥の院玉泉寺】「日切地蔵尊」の案内が記された規格外の中務茂兵衛標石
【87番札所奥の院玉泉寺近く】下部が地面に埋もれる造田八幡宮脇参道の中務茂兵衛標石
当標石の観察にはいくつか難点があります。
・交通量が多い
・正面はガードレール、左面は植栽があり見づらく写真も撮りにくい
・それでいて字数が多い
橋が横にあって交通が集中することがあり、車の往来が途切れることがありません。そのため落ち着いて標石を観察したり撮影することがなかなか難しい。写真を撮って後からじっくり眺めようにも横にガードレールなどの障害物があり構図を選ぶことができないので、その点も悩ましいところです。
<正面上部>
左(指差し)
長尾寺
入定大師像
指差しは87番札所長尾寺の方角を示しておりますが、順打ちでこの場所を訪れた際は当面ではなく目に入るのは右面になります。石の根本の状態から察するに立て直したのはほぼ間違いなさそうですが、手前の玉泉寺付近で見ることができる標石のように明らかに逆の方向を指しているわけではないので、そこまで大きな移設はしていない印象を受けます。
<正面下部>
善誉遵道禅定門勝誉●●禅定●
為藤井氏先祖代々菩提
●誉遵禅定尼潤誉貞春禅●
記載内容から察するに2名の戒名が刻まれているようです。同じ特徴を持つ標石としては16番札所観音寺の近くにある石が思い出されますが、おそらく同一人物と思われます。偶然かどうかそちらの標石もすぐ横に壁があって2面が見づらい上に道幅の割に交通量がある道沿いに立っています。
※16番札所観音寺近くの中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
標石右面に表記されている内容
<右面>
志度寺
大阪市東區横堀四丁目
滅罪生善
施主
材木商
藤井イシ
86番札所志度寺は寺名だけで方角は記されていません。
大阪市東區横堀四丁目(おおさかしひがしくよこほり)→大阪市中央区久太郎町1-4丁目(おおさかしちゅうおうくきゅうたろうまち)
明治12年(1879)2月 郡区町村編制法施行により東区誕生
明治22年(1889)4月 市制施行により大阪市東区
平成元年(1989)2月 南区と統合され中央区誕生。横堀1-6丁目は久太郎町1-4丁目に統合 ※東区廃止
横堀の町名は区統合に伴う街区変更等により。水路としての横堀は埋め立てによっていずれも存在しません。埋め立てられた横堀は阪神高速1号環状線の高架などに転用されています。
施主の藤井氏は材木商を務めつつ中務茂兵衛標石の寄進を通じて四国八十八ヶ所と関わりを持っていたことが、いくつか寄進を行っている標石から想像することができます。同氏の標石の特徴は戒名らしき文言を石に刻んで先祖供養を行う点ですが、滅罪生善と記しているあたり四国八十八ヶ所参りや標石寄進(=お接待のようなイメージ)を通じて功徳を積んでいたということでしょうか。
滅罪生善(めつざいしょうぜん)→現世で善行を積むことによって罪が滅び来世での果報を呼び込むこと
実際に四国遍路を行っていたかもしれませんし、石に職業を記すくらいですから事業が多忙で四国へ行くことができず、標石寄進を通じてご利益を求めていたのかもしれません。
※藤井イシ氏の寄進による中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【84番札所屋島寺→85番札所八栗寺】元祖大阪で暮らす施主によって寄進が行われた標石
標石左面に表記されている内容
<左面>
誠誉●山禅定門
真●宝●●禅定門
●誉●●禅定尼
明治三十四年二月大吉辰
正面の文言と同じ中央を頭一つ上に書いて左右それぞれと合わせて三行の刻字。左側に「尼」とついているあたり女性を指すもの、すなわち正面左面どちらも夫婦の戒名なのかなとも取れます。
明治34年2月は西暦1901年、20世紀が始まった年です。
同年同月、官営八幡製鉄所が操業を開始しています。それまで輸入に頼っていた鉄材を国内で生産することができるようになり、日本の産業が軽工業から重工業へ転換していく契機となりました。その開設費用には日清戦争で得た賠償金が投じられました。
建立年度が記された下部の写真がありませんが、現地では見ることができます。私が訪れた時は草に覆われていてその部分の写真が撮れず、車がひっきりなしにやってくるので写真に収めるための構図をあれこれ考える余裕もなく。なんせ落ち着かない場所に標石があります。
標石裏面に表記されている内容
<裏面>
壹百八十一度目為供養建之
周防國大島郡椋野村産
願主 中務茂兵衛義教
中務茂兵衛「181度目/279度中」の四国遍路は自身57歳の時のものになります。
こちらの標石が立っている場所は交通量が多く、前後カーブになっているので自動車の接近に気付くのが遅れがちです。標石とガードレールが近すぎて見づらく離れて見たりすることになりますが、それもまた危険が及びます。
歩き遍路の順路としては見えている橋を渡らず川の左岸沿いの道を進むのですが、こちらを安全に横断するための横断歩道がありません。石を観察しないとしても横断に注意を要する場所ですので、くれぐれも用心して進まれるようにしてください。
※川沿いの遍路道を進んだ先にある中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【87番札所長尾寺手前】現在の遍路道ではない場所に立っている中務茂兵衛標石
【「87番札所長尾寺手前の広瀬橋たもとの中務茂兵衛標石」 地図】