29番札所国分寺から約1.5km南東の交差点に中務茂兵衛標石が残されています。お遍路さんによく知られている名物「へんろいしまんじゅう」の名前の由来にもなった標石で、中央部が剥離したような形状になっているのが特徴です。
中務茂兵衛義教
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石正面に表記されている内容
<正面>
右(指差し)
大日寺
〇〇 ※剥離
〇住
鳥居カツ
左(指差し)
國分寺
〇〇 ※剥離
〇郡津組村
〇井?
上杉イマ
標石の状態は正面から見ると縦に真っ二つに割れて中央部がくびれるように剥離しています。刻字部分が分割されることなく割れている点が奇跡的ですが、割れたのではなく元々二枚の石を貼り合わせた構造だったのかもしれません。
<正面上部>
右(指差し)
大日寺
左(指差し)
國分寺
大日寺→28番札所大日寺/約8km
國分寺→29番札所国分寺/約1.5km
28番札所大日寺と29番札所国分寺の間の道中に標石があり、国分寺寄りの地点に位置しています。
<正面下部>
〇住
鳥居カツ
國〇〇郡津組村
〇井?
上杉イマ
寄進者の在所と氏名が表記されていて、寄進者は女性のようです。
氏名の部分は読み取りやすい字体で損傷が少ないのですが、在所を示す部分が中央部のくびれるように剥離している部分にあたり、判別が非常に困難になっています。
津組村→現・大分県津久見市
がパッと思い浮かぶのですが、「郡」の字の上が「しんにょう」の漢字に見えるのでそこでまた困惑します。大分県の津組村だとしたら旧・北海部郡(きたあまべぐん)になるので、しんにょうの漢字は入っていません。調べきれておりませんが大分(豊後)以外に津組村が存在したのかもしれません。
右の施主さんで判別できるのは氏名のみ。氏名に見覚えがあるような気がするのですが、どこの標石だったか思い出せません。これまでの調査から施主は同一人物がそこそこ登場するので、後年別の石を解析するうちに判明するかもしれません。
標石右面に表記されている内容
<右面>
明治三十天
八月吉辰
東京本〇三
世話人
川〇菊平
通常であれば「年」となるところが「天」になっている点については不明ですが、明治30年とすると西暦1897年。同年同月に日本勧業銀行が創立しました。現在のみずほ銀行の前身にあたる銀行です。
みずほ銀行と聞いて我々が思い浮かべるものに「宝くじ」がありますが、そちらの正式名称は「当せん金付証票(とうせんきんつきしょうひょう)」。当初はくじとして販売されたものではありませんでした。
農工業の改良と発展を目的に政府主導で設立されたのが日本勧業銀行ですが、運営資金調達は一般的な銀行のような預金ではなく金融債の発行によって賄われていました。さらに同行だけに唯一特例として認められていたのが、金融債発行後に抽せんを行い、当せん番号を持つ債権所有者に割増金付きで償還する制度。そのシステムが現在の宝くじ事業の前身といえます。
時代が進んで昭和になり日中戦争が始まると、その戦費調達のため制定された臨時資金調整法を根拠に「福券」「報国債券」「勝札」と呼ばれる割増金付き金融債が次々に発行されます。勝札については昭和20年(1945年)7月16日に発行され最終販売日が皮肉にも終戦の8月15日。抽せん日が8月25日だったため「負け札」と揶揄されたそうです。抽せんは予定通り行われ、当せん金がきちんと支払われたそうですが、この手の話に付き物の「日本の敗戦により紙屑同然になった」となっていたならば、当せん金付のくじ制度は信用を失い宝くじ事業はスタートしなかったかもしれません。
宝くじの名称は勝札の抽せんから約2ヶ月後の10月に発売された「政府第1回宝籤」が初見とされ、そのときは戦災復興の資金調達が名目。その幹事銀行となったのが割増金付きの債券発行の実績があった日本勧業銀行でした。現代のみずほ銀行にその業務が受け継がれているのはそのためです。
宝くじ
抽せん
当せん
同制度においてはそれぞれ平仮名で記されますが、漢字で書くとすれば全て「籤」と書きます。訓読みで「くじ」音読みで「セン」と読みますが、籤の字が常用漢字に含まれていないため平仮名で表記されます。
法律としての宝くじは上記の通りですが、民間に存在した同様のものに「富籤(とみくじ)」があります。寺社が修繕費用の調達を行う際や正月など大勢の参拝客が見込まれる際に発行され、当籤した者に金銭が与えられた、と歴史の授業で習ったことがある人もいらっしゃると思います。これらは例によって大変な人気を博したのですが、同時に射幸心を煽る性格を持っていたため、近代になり法整備が行われ、くじに金銭を割増して付与する行為は禁止されています。
標石左面に表記されている内容
<左面>
臺百五十七〇〇〇供養建之
周防國大嶋郡椋野村住
施主 中務茂兵衛義教
標石右中部が削れて字が判別できませんが「度目為」だと思われます。
中務茂兵衛「157度目/279度中」の四国遍路は自身53歳の時のものになります。
標石メモ
発見し易さ ★★★★★
文字の判別 ★★☆☆☆
状態 ★★☆☆☆
総評:石材の割れ・剥離が多く見られ、左面以外の文字判別が困難。しかしながら道路拡張等があっても周辺が整備されて再設置されるなど、住民にとって愛着のある標石であることが見て取れます。名物まんじゅうと共に末永く存在して欲しい標石です。
※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません
へんろいしまんじゅう
道路拡幅前の店舗は横断歩道左にあり、まさにへんろいしの前にあるまんじゅう店だったわけです。現在の店舗は標石がある交差点からやや南に移動した地点にあります。
まんじゅうは5個入りと10個入り、あとはばら売りで購入する方法があります。この再訪時はバイクツーリングで歩き遍路と同様に荷物を増やせなかったので、1個だけ味わうことができるのはとても助かりました(ばら売りは公式制度かどうかわかりません)。
購入後にさっそく店頭でいただき、大きさ・甘さともにちょうど良い、癒しのまんじゅうは健在でした。
ちなみに、
明治25年(1892年) 元祖山崎へんろいしまんじゅう創業
明治30年(1897年) 当地に中務茂兵衛標石建立
なので、標石よりまんじゅう店のほうが長い歴史を有しています。
※へんろいしまんじゅうに関して、以下リンクの記事で詳しく紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【元祖山崎へんろいし饅頭】遍路石が店名の由来、遍路道中の甘味補給にお勧めのまんじゅう
【「元祖山崎へんろいしまんじゅう近くの中務茂兵衛標石」 地図】