【87番札所長尾寺】「八十七番霊場」であることを示す本堂前にある中務茂兵衛標石

87番札所長尾寺の本堂前に「四国八十七番霊場」と記載された中務茂兵衛標石があります。寺院の境内に設置されているからか、他の標石の記載内容の傾向とは異なる表現がされている珍しいものです。

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87番札所長尾寺本堂前の中務茂兵衛標石

87番札所長尾寺の本堂前にある石が中務茂兵衛標石だったことに気付いたのは最近のこと。

 

中務茂兵衛義教

中務茂兵衛 写真

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。

 

標石正面に表記されている内容

87番札所長尾寺本堂前の中務茂兵衛標石_正面

標石のサイズは大きく全体的な情報判別はしやすい。


<正面>
四国八十七番霊場


四国八十七番霊場→87番札所長尾寺

標石は87番札所長尾寺の本堂前にあり、見つけるのは難しくありません。

 

標石右面に表記されている内容

87番札所長尾寺本堂前の中務茂兵衛標石_右面

建立年度に干支が記されている石はしばしば見ることができる。


<右面上部>
明治葵巳五月


葵巳は「みずのとみ」と読みます。

十干(じっかん)…甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸
十二支(じゅうにし)…子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥

を組み合わせたものを干支(えと)と呼びますが、その30番目にあたるのが葵巳になります。

1甲子
2乙丑
3丙寅


10癸酉 と来たら次は、
11甲戌 となり、十干は二巡目になり十二支がずれていきます。
12乙亥 
13丙子


30癸巳


40癸卯 ※2023年


60癸亥 で干支が一巡し、再び
1甲子 と繰り返していくのが干支になります。

干支で有名なエピソードでいえば、兵庫県に甲子園大運動場(現・阪神甲子園球場)が開場したのは大正13年(1924年)8月1日ですが、この年の干支が「甲子(きのえね、こうし)」で干支順でいえば一番目という縁起の良さからその名が命名されました。

ではここでの葵巳はいつになるのか。直近の葵巳は2013年。同じ干支は60年に一度やってくるので、60年前としたら1953年で昭和28年なので違います。
そのまた60年前だと1893年の明治26年。そのまた60年前だと1833年の天保4年になってしまいます。

というわけで、こちらの標石が立てられた明治葵巳五月は明治26年(1893年)5月です。
同年同月10日に米国連邦最高裁がトマトは果物ではなく野菜と裁定しました。判決理由はいくつかありそうですが、食事中に出されるのでデザートではない、というのが根拠の一つだそうです。
トマトは南米大陸原産でクリストファー・コロンブスなど冒険家らによってヨーロッパにもたらされ、世界中に広まったことが通説になっておりますが、ヨーロッパ伝来最初期の富裕層が使用していた食器は金属製のものが多く、トマトの酸味により有毒成分の漏出による鉛中毒が多発し、トマトには毒があると噂されることになり、長い間観賞用に留まりました。
食用として日の目を見るようになったのは19世紀になってからで、イタリアで貧困層の人々が食べるものがなく、有毒とされていたトマトを口にした、というのが食用としてのトマトの始まりとされています。その時の合言葉が「加熱すれば大丈夫」だったそうです。トマト毒自体そもそもが誤解ではありましたが、南ヨーロッパからピッツァやパスタなどにも姿を変えながらトマト食は世界中へ広がっていきました。
日本では17世紀はじめにオランダ人によって長崎へもたらされたのが始まりです。日本では毒物とはされなかったようですが、当時のトマトは青臭さがきつく加熱調理法も伝わっていなかったので、日本でも食材としては認知されていなかったようです。アメリカでの品種改良などにより日本人の口にも合うトマトが登場し普及するようになったのは20世紀になってからのこと。すなわちこちらの標石が建てられた時代頃からぼちぼちと、のような感じだったのかもしれません。

87番札所長尾寺本堂前の中務茂兵衛標石_右面下部

他の石ではあまり見かけない表記が二つある。


<右面下部>
世話人
長州
中務茂平


中務茂平、読みは同じ「なかつかさもへえ」だと思いますが珍しい表記です。

自身の住所は専ら周防國(すおうのくに)を名乗っているイメージがあるので、長州(ちょうしゅう)も正解ではありますが、ごく少数派であるように思います。長州には二通り意味があり「長門國(ながとのくに)」を指す場合と「長州藩(ちょうしゅうはん)」を指す場合があります。

①長門國…山口県西半分。律令制において山陽道に属する國名 ※山口県東半分が周防國
②長州藩…江戸時代に毛利家が治めた律令制における長門國+周防國の範囲

茂兵衛さんの故郷がある大島は、専らそれを名乗っているように周防國の範囲。なのでここでの長州は②のほうを指していると思われます。
長州という表記も少数派ですがそれより見かけないのが「山口県」。茂兵衛さんが故郷を出て四国へ渡ってきたのが慶応2年(1866年)、山口県の成立が明治4年(1871年)。山口県という呼称に馴染みは無さそうです。世間的にも明治時代は道府県より旧國名のほうが浸透していたようなイメージがあります。

 

標石裏面に表記されている内容

87番札所長尾寺本堂前の中務茂兵衛標石_裏面

施主名だけで所在などは記されていないが、「岡田」は香川県に多い苗字なので地元の人による寄進かもしれない。


<裏面>

志度道
施主
岡田庄太郎


志度寺→86番札所志度寺

こちらの標石には施主の住所と茂兵衛さんの巡拝回数が記されておりません。寺院の中にあって札所番号を示すものなので、路傍にある標石とは仕様が異なるのかもしれません。

巡拝回数は建立年度からの想像ですが、以前取材した明治26年(1893年)12月の標石に133度目の表記がありますので、こちらの標石を建てた頃の茂兵衛さんの巡拝回数は130度前後と思われます。年齢は49歳です。
※近い年月に建てられた中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【71番札所弥谷寺→72番札所曼荼羅寺】大師修行の霊山・捨身ヶ岳を臨む位置に立つ標石

※長尾寺にたどり着くまでの道中に設置されている中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【87番札所奥の院玉泉寺】弘法大師の浮彫が特徴的な大きなサイズの中務茂兵衛標石

【87番札所奥の院玉泉寺】「日切地蔵尊」の案内が記された規格外の中務茂兵衛標石

【87番札所奥の院玉泉寺近く】下部が地面に埋もれる造田八幡宮脇参道の中務茂兵衛標石

【87番札所長尾寺手前】大阪の施主の信仰の形が表れている中務茂兵衛標石

【87番札所長尾寺手前】現在の遍路道ではない場所に立っている中務茂兵衛標石

 

【「87番札所長尾寺本堂前の中務茂兵衛標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。