【43番札所明石寺近く】参道の鳥居前に残されている中務茂兵衛晩年の標石

「あげいしさん」の愛称で親しまれる43番札所明石寺の奥の院・白王権現と寺への参道の交差点にある鳥居の前に中務茂兵衛標石が残されています。その内容からキャリア晩年のものであることがわかります。

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第43番明石寺参道の標石 立地

標石があるのは鳥居前で、歩き遍路の多くは鳥居左の路地から出てきて寺へ向かう

 

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>

中務茂兵衛 写真

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。

 

標石の正面に表記されている内容

第43番明石寺参道の標石 正面

一見参道に対応している面が正面と間違えそうですが、記載内容的にはこの面が正面

<正面上部>
左(指差し)
明石寺へ三丁余

明石寺→43番札所明石寺(めいせきじ)
標石が立っているのは明石寺へ向かう参道の入口といえる場所で、鳥居が目印です。

第43番明石寺参道の標石 正面下部

造船業や柑橘栽培で有名な離島住民による寄進

<正面下部>
廣島県御調郡田熊村
施主 岡野芳平

廣島県御調郡田熊村(ひろしまけんみつぎぐんたぐまむら)→現・広島県尾道市因島田熊町(ひろしまけんおのみちしいんのしまたぐまちょう)
明治11年(1878)11月…郡区町村編成法により御調郡成立
明治22年(1889)4月…町村制により田熊村発足
昭和24年(1949)4月…田熊町に昇格
昭和28年(1953)5月…合併により因島市
平成18年(2006)1月…合併により尾道市

おおむね現在の尾道市の大部分と三原市東部に相当する御調郡(みつぎぐん)。その中でも施主住所にある「田熊町」はしまなみ海道を構成する一島の因島(いんのしま)にあり、町内に隣の生口島(いくちじま)とを繋ぐ生口橋が架かっているので、自動車はもちろん自転車・原付など今日様々な交通手段で旅をする人が気づかないうちに通っている街といえます。
しまなみ海道の大きな特徴として、各連絡橋で自動車や126ccのオートバイが通行できるのはもちろん、排気量125cc以下のオートバイや自転車、歩行者も通行できるレーンが別に設けられている点。これは「明石→淡路島→鳴門ルート」「瀬戸大橋」には無い特徴。地域住民が因島の造船所へ原付バイクで通勤する姿や、それぞれのマシン等で旅を楽しまれる人にとって貴重な観光資源になっています。

 

標石の右面に表記されている内容

第43番明石寺参道の標石 右面

200度台の後半の建立を示す内容

<右面>

新道
弐百五十六度目為供養
周防國大嶋郡椋野村住
願主 中務茂兵ヱ義教

中務茂兵衛「256度目/279度中」の四国遍路は自身70歳の時のもの。晩年の標石です。
「新道」と記されている方向に100m前後行った場所(=逆打ち方向)に、明石寺始まりの伝説「あげいし」の舞台となった奥の院・白王権現(はくおうごんげん)があります。自家用車等で寺を訪れると、まず目に入るのはこちら右面ですが、歩き遍路の多くはその奥の院付近を経由してこの場所へやってくるので、先で紹介させて頂いた正面が目に入ります。

 

標石の左面に表記されている内容

第43番明石寺参道の標石 左面

逆打ちの方向を示している

<左面上部>
右(指差し)
佛木寺へ三里

佛木寺→42番札所仏木寺(ぶつもくじ)
三里=約12kmなので言うは易しですが、その間には急傾斜が存在する歯長峠(はながとうげ)が待ち受けます。

第43番明石寺参道の標石 左面下部

第一次世界大戦が始まった頃の建立

<左面下部>
大正三年八月吉日
世話人 卯之町 宮本友●●

大正3年は西暦1914年。
同年7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告する形で第一次大戦が始まりました。日本は同年8月23日にドイツに宣戦布告する形で参戦。翌月、ドイツの租借地(そしゃくち)である山東省青島(さんとんしょうちんたお)に上陸してドイツ東洋艦隊と交戦。短期間のうちに勝利を納めました。
青島(ちんたお)といえば今日ビールでその名が知られていますが、これは元々ドイツ施政下で会社設立されたものが大正8年(1919)のヴェルサイユ条約によって日本が引き継いだ、かつてのドイツ諸権益の一つ。大日本麦酒(だいにっぽんびーる、現在のアサヒやサッポロの前身)によって買収され日本向けのビールの製造が始まったことにより、日本人に馴染みのあるビールブランドとなりました(第二次世界大戦後、中国に移管)。

また四国と繋がる話としては、この時の戦闘で捕らえられた俘虜(ふりょ)が日本に連れて来られ各地の俘虜収容所へ送られました。
そのうちの一つが「板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)」。現在の徳島県鳴門市。第1番霊山寺(りょうぜんじ)と第2番極楽寺(ごくらくじ)の中間付近にあった施設ですが、こちらでのエピソードは「バルトの楽園(ばるとのがくえん、2006)」として映画化されました。そのドイツ兵たちによってもたらされたものに、ハムやソーセージ、バームクーヘン等のそれまでの日本で乏しかった食文化やその製造法。音楽文化ではヴェートーベンの交響曲第九番があります。いずれも今日の日本に法人・民間問わず根差したものが多く、現在の日独友好関係の祖ともなっています。

 

【「43番札所明石寺参道の中務茂兵衛標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。