87番札所奥の院の玉泉寺の門前に、大きなサイズの中務茂兵衛標石が残されています。玉泉寺の存在を知らしめるわかりやすい記載内容で、他の中務茂兵衛標石とは大きく異なる特徴をもった規格外のものです。
中務茂兵衛義教
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石正面に表記されている内容
<正面>
八十七番奥の院
玉泉寺(ぎょくせんじ)に残されている2基の中務茂兵衛標石は、いずれも通常の2倍はあろうかという大きなサイズで、遠くからでも見えてそこが何か一目でわかります。数多く存在する中務茂兵衛標石の中で正面表記のわかりやすさでいえばトップクラスではないでしょうか。
※玉泉寺に残されているもう1基の標石に関しては、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【87番札所奥の院玉泉寺】弘法大師の浮彫が特徴的な大きなサイズの中務茂兵衛標石
この石の存在は歩き遍路で通りがかって知っておりましたが、それが茂兵衛さんの標石と知ったのは最近のことです。なぜなら、中務茂兵衛標石の多くは劣化しているなどの事情で、記載内容を解読するのに相当頭を悩ませたり、ある程度の標石のフォーマットが頭に入っていたりするので、他の標石の特徴と大きく異なるこの石を、先入観が邪魔して茂兵衛さんの石とは認識できていませんでした。
標石右面に表記されている内容
<右面>
明治四十四年十一月吉辰
明治44年は西暦1911年。
同年同月26日、第1次・第2次桂太郎内閣で外務大臣を務め、欧米列強が日本を強国と認める条約交渉を行った小村寿太郎が死去しています。同氏は同年2月の日米通商航海条約の講和において日本全権を務め、同条約の締結を以って日本は関税自主権を回復しました。安政年間に締結された不平等条約の改正は、富国強兵をスローガンに明治維新を推し進めてきた日本が欧米列強と対等な位置に上り詰めたということになります。
日清戦争に勝利、日露戦争を優勢な形で終えたことで日本は世界から一目置かれる存在になっていたといえますが、小村寿太郎は日露戦争の講和条約であるポーツマス条約(1905年)でも全権を務めました。
標石左面に表記されている内容
左面は横の樹木との関係で全面を撮影しにくかったので、上下にわけて紹介します。他の標石でも、横に紫陽花が植えられていることが多い気がしますが偶然でしょうか。
<左面上部>
左(指差し)
日切地蔵尊
玉泉寺の入口で指差しの通りに山門をくぐって参道を進むと、日切地蔵尊(ひぎりじぞうそん)が祀られている本堂に到着します。日切地蔵尊とは日時を限定して願掛けを行うとご利益ありのお地蔵さま。玉泉寺では「今度の日曜日晴れますように」のような日時や期間を指定したお願いごとをされると良いと思います。
<左面下部>
志摩國鳥羽町
施主
●●●十●
娘●と
志摩國鳥羽町(しまのくにとばちょう)→三重県鳥羽市(みえけんとばし)
紀伊半島東部に突き出る志摩半島の北東端に位置する鳥羽市。隣接する伊勢市や志摩市と共に大観光地「伊勢志摩」を形成しています。現在では世界中に広まっている真珠の養殖ですが発祥は鳥羽。真珠王こと御木本幸吉(みきもとこうきち)が明治26年(1893年)7月に世界で初めて真珠養殖に成功したのが鳥羽の地です。それまで真珠を得ようとするならば天然のアコヤ貝から獲得する方法しかなく非常に高価なものでしたが、養殖真珠の量産化によって庶民の手にも行き渡るようになりました。
養殖真珠の流通は意外な形で世界を変えることになります。
それまでの天然真珠の産地はペルシア湾沿岸のクウェートやバーレーン(当時はイギリス保護国)などで、どちらも現在は産油国として名を馳せておりますが、20世紀の始めまでは天然真珠が地域の主な収入源でした。当時の真珠はアラビア商人から宗主国のイギリスを通じてダイヤモンドより高値で取引されていたそうです。今やオイルマネーの象徴と例えられ巨大ビルが立ち並ぶドバイは、その時代天然真珠取引を中心とするアラビア地域における貿易の拠点でした。
しかしながら20世紀初頭頃から日本の御木本幸吉由来の養殖真珠が世界市場に出回るようになると、養殖の数倍する天然真珠は次第に競争力を失い窮地に立たされます。それらの国々は真珠売買の富を得て食糧を輸入する構図だったので、国民が飢餓に陥る可能性さえ出てきました。1929年に起きた世界恐慌によりその流れは更に加速することになります。
そこで背に腹は代えられず開発が行われたのが「油田」。ペルシャ湾一帯に大量の石油が埋蔵されていることは古くから知られていたそうですが、それを開発しようとすると外国資本を導入せざるを得ず、時の国王はそれを嫌い石油開発は行われませんでした。そんなことしなくても真珠で生きていけたでしょうし、エネルギーの主役はまだまだ石炭の時代で、その必要がなかったようです。
天然真珠産業の壊滅によりそうも言っていれなくなり、バーレーンを皮切りに油田開発が行われると、すぐさま良質かつ大規模油田が発見され石油の利益で国を持ち直すどころか真珠時代以上の富をもたらすようになります。それを見たペルシア湾周辺諸国は次々と油田開発に参入し、第二次世界大戦による中断がありましたが中東地域が世界一の産油地帯になりました。
天然真珠産業が窮地に立たされなくても世界のどこかで油田開発が行われ、どこかの時代で石炭から石油へのエネルギー転換は行われたと思いますが、第二次世界大戦からの早期復興と世界経済の発展は中東で産出される安価で高品質な石油によって成し遂げられたといっても過言ではありません。特に大戦によって荒廃した共に工業国のドイツや日本が戦災から立ち直ることができたのは、石油によるところが大きかったように思います。養殖真珠の量産化は世界図を変えるほど画期的な発明だったことになります。
施主に話を戻します。
姓名こそわかりづらいものの左に記されている名前の上に「娘」と見えます。他の標石の調査で「妻」は見たことがありますが、娘の表記はあまり見かけません。志摩地方は海女漁に代表されるように女性が古くから活躍してきた土地柄で、この時代に標石を寄進する経済力を有していたとしても不思議ではありません。
標石裏面に表記されている内容
<裏面>
當山伽藍
弐百四十一度目為供養
周防國大島郡椋野村
願主中務茂兵衛義教
中務茂兵衛「241度目/279度中」の四国遍路は自身67歳の時のものになります。
當山伽藍は「とうざんがらん」と読みます。伽藍とは僧侶が集まり修行する清浄な場所を指します。
中務茂兵衛標石は、形や記載内容にある程度のフォーマットはありますが、今回ご紹介した標石のように規格外のものも存在するのがおもしろいところです。全国各地いろいろな場所の施主からの寄進もあり、当時の遍路業界やなぜこの施主が寄進するに至ったのかなどを想像していくと、興味が尽きません。
※玉泉寺から87番札所長尾寺方面に少し進んだ先にある中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【87番札所奥の院玉泉寺近く】下部が地面に埋もれる造田八幡宮脇参道の中務茂兵衛標石
【「87番札所奥の院玉泉寺門前の中務茂兵衛標石」 地図】