香川県坂出市と高松市にまたがる山塊「五色台」の山上に位置する81番札所白峯寺へ向かう遍路道は古来よりいくつか存在します。そのルートの一つ、五色台への登山口にあたる地点に大きく目立つ標石が残されています。
標石正面に表記されている内容
<正面>
左(袖付き指差し)
四國第八十一番霊場
すく遍ん路ミち
これヨリ貮拾五町三拾間
四國第八十一番霊場→81番札所白峯寺
貮拾五丁三拾間→2,725m+54.6m≒2,779m(2.8km)
「すく・すぐ」は「まっすぐ」のことを表します。ここでは指差しの方向に約2.8km進めば81番札所白峰峯寺がありますよ、という意味になります。
「間」は「けん」と読み、1間(いっけん)は約1.82mの長さの単位で、現代では家を建てる時に寸法や建具の幅を表すものとして登場します。起源は柱と柱の間である柱間(はしらま)を表すものなので、長さに間違いないのですが、屋外の距離を示す単位としてはあまり登場しないイメージがあります。私が標石で間の単位を見たのは初めてです。ちなみに1間×1間=1坪(3.3㎡)で、一般的な畳2枚分の広さになります。
分(ぶ)≒30mm
寸(すん)≒3.03cm=10分
尺(しゃく)≒30.3cm=10寸
間(けん)≒1.82m=6尺
丈(じょう)≒3.03m=10尺
町(ちょう)≒109m=60間
里(り)≒3.93km=60町
標石に登場するのは専ら「町(丁)」「里」です。
81番札所白峯寺までの距離はこの標石で判明しますが、寺は五色台と呼ばれる台地の上にありますので、登り坂が始まるこの場所に良い意味でこのあとの進行計画の判断や決断を促すものとして建てたと思われます。
標石右面に表記されている内容
<右面>
南此方
國分寺へ壹里貮拾四町
瀧之宮へ貮里貮拾四町四拾間
高 松へ四里貮拾四町●
一之宮へ三里貮拾八町貮拾間
佛生山へ四里拾八町三拾間●
國分寺→80番札所国分寺、壹里貮拾四町≒3.93km+2.61km=6.54km
瀧之宮→滝宮天満宮、貮里貮拾四町四拾間≒7.86km+2.61km+0.07km=10.54km
高 松→高松市街地、四里貮拾四町≒15.72km+2.61km=18.33km
一之宮→83番札所一宮寺もしくは讃岐一宮田村神社、三里貮拾八町貮拾間≒11.79km+3.05km+0.04km=14.88km
佛生山→法然寺、四里拾八町三拾間≒15.72km+1.96km+0.05km=17.73km
現在の香川県中央部に位置する寺社が中心に記されています。これだけの情報を有していながら、この中に金毘羅大権現(現・金刀比羅宮)が含まれていないのが珍しいように感じます。そちらは方角が西になるからでしょうか。
こちらの標石がある坂出市は現代では瀬戸大橋が架橋されているように、本州と四国をつなぎ東西南北のわかれ道に位置する街なので、お遍路さんに限らず様々な人が行き交う点を考慮してこの場所に標石を建て、相応の情報を記載したのではないかと考えられます。
標石裏面に表記されている内容
<裏面>
建再?
寛政六甲寅年三月吉日
寛政6年は西暦1794年4月頃。同年同月10日、アメリカ合衆国東部のロードアイランド州ニューポートでマシュー・ペリーが誕生しています。嘉永6年(1853年)の黒船来航、翌年の日米和親条約に調印した人物として知られる人物。ペリーと呼ばれるようになったのは戦後のことで、それまで日本の歴史教科書などには「ペルリ」と記載されていました。
甲寅は「きのえねとら」と読みます。
十干(じっかん)…甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸
十二支(じゅうにし)…子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥
を組み合わせたものを干支(えと)と呼びますが、その51番目にあたるのが甲寅になります。
1甲子
2乙丑
3丙寅
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10癸酉 と来たら次は、
11甲戌 となり、十干は二巡目になり十二支がずれていきます。
12乙亥
13丙子
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51甲寅 ※1794年、1854年、1914年、1974年、2034年
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60癸亥 で干支が一巡し、再び甲子に戻ります。
現在は前回の甲寅と次回の甲寅の年の間になり、こちらの干支の年は私はまだ経験したことがありません。同干支の名が登場する出来事としては「寅の大変(1854年)」。嘉永年間後半は大きな地震が多く黒船来航など不穏な出来事が相次ぎ、そのとどめが安政東海地震・安政南海地震。そのため安政に改元になりました。安政南海地震といえば我が国の地震史において未曽有の被害を被った大地震として教わりますが、厳密には嘉永年間に発生したもので、嘉永7年と安政元年が同じ1854年だったことから後者の元号で呼ばれています。
寛政6年(1794年)は世界ではフランス革命の終盤時期にもあたります。昔も今も市民革命とはあまり縁がない日本ですが、こちらの石で行先がこのように記されるあたり当時すでに観光を兼ねた巡拝旅行ができるほど世の中が平和だったことを、こちらの標石は伝えているのかもしれません。
現代では通るお遍路さんが少ないルートに残された標石には、当時の交通事情を知ることができるたくさんの情報が記載されていました。79番札所天皇寺からの順打ちルートは江戸時代や、中務茂兵衛さんが歩き標石を建立した明治・大正時代と現代とではかなり状況が異なることがわかってきました。
※79番札所天皇寺からの順打ちルートに残されている中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【79番札所天皇寺近く】行先が書かれていない中務茂兵衛標石から想像できること
標石メモ
発見し易さ ★★★☆☆ 現代の一般的とされる遍路道上に無い
文字の判別 ★★★★★
状態 ★★★★★
総評:四国内で見ることができる標石の中で大きさは最大サイズ。記載内容が充実していてその判別も容易。
※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません
【「五色台麓の現代では通る人が少ない遍路道を示す標石」 地図】