昔昔の四国八十八ヶ所霊場はルールが定まっていない、道が険しい、地図が無いなど、一般人が到底回れるようなものではなく、修行僧などの限られた人たちしか回ることができませんでした。江戸時代中期にそれを可能にした人物が「真念」です。
58番札所仙遊寺のへんろ石
四国八十八ヶ所霊場58番札所仙遊寺。
境内入口に少し字が消えかかった古いへんろ石があります。遍路の父と呼ばれた「有辯真念(ゆうべんしんねん/生没年不明)」によって建立されたもの。
大坂出身の僧侶で、お大師さまの足跡を追って 四国のあまねく道を歩くこと二十周。
紙が高価だった当時、今のように地図は一般的ではない。かといって木版は携行には適さない。真念自身が四国を方々歩く中で迷いやすい場所に建立したものがこちら。後年、多くの篤志家が四国各地にへんろ石(=道しるべ)を建立することになるが、江戸時代中期に真念によって建てられたものは、それらの元祖とされる。
現在残る真念のへんろ石は、四国全域を見渡したところで 僅か20基という。こちらは愛媛県の58番仙遊寺に移設されたものだが、その残数からいえば大変貴重なものである。この付近では54番札所延命寺境内にも真念へんろ石が残されている。
遍路の父「真念」の功績
自身が回る中で困難があった場所に小屋を建てて簡易な宿泊設備を設置 「真念庵」
後発の遍路が来た際に曲がり角などで迷わないように道しるべを建立「真念へんろ石」
協力者を募り出版した四国八十八ヶ所史上初の案内本「四国遍路道指南(しこくへんろみちしるべ)」
特に現在でいうところのガイドブックの出版によって、民間人のお四国まいりが増加したことが "遍路の父" と呼ばれる所以。
その本が画期的だった点が、一番、二番…札所に番号がつけられたこと。それまでの四国遍路は、道すがら全ての寺社を巡って行くため、距離が長ければ詣でるべき箇所が曖昧だった。四国遍路を広く知ってもらうために、真念は全行程の距離を減らすことと一定のルール作りが必要と考えた。
そこで参るべき札所の数を八十八ヶ所に制定、するとそれを最短で結ぶ道ができる。
"札所" と "遍路道" の概念が生まれ、今日の八十八ヶ所参りの原型ができ上がったという。
88という数字について
この数字は何からきているのだろう。これは実際のところ 真念さんに聞いてみなければわからない。
一説には "米" の字を分解すると 「八」「十」「八」になるとか、巡礼の原型・熊野詣が "九十九王子" を回ることから、そこに敬意を表して八十八になったとか。
そのようにして四国八十八ヶ所は庶民にも回ることのできる霊場となったが、後年、真念は人々が参るのは本札所のみ、八十八番以外→すなわち番外札所を軽視する風潮を、
「かつては四百八十八里の道のりがあり、横堂(番外札所)も全部拝んだが、今は僅かに八十八の札所だけになり、三百有余里の道のりとなった。」
このように嘆いています。
本札所・番外、どちらも霊場です。霊気が生まれる場所なので、手を合わせるだけで体の悪いところが治った、ということもあるでしょう。
四国八十八ヶ所を発展させた真念さんがいて、その後大勢の人たちが歩くことで伝統が受け継がれ、今日我々は自身の健康と周囲の理解があって、四国遍路の旅に出れることと思います。様々なことに感謝を忘れず、おまいりを進めて欲しく思います。
【「58番札所「仙遊寺」境内入口の真念標石」 地図】