四国八十八ヶ所霊場巡礼の遍路道と土佐北街道が交わる地点には、中務茂兵衛標石やかつての歴史を物語る石碑があります。参勤交代をする藩主一行も通ったとされる要所で、江戸時代の旅人の動きを考察してみました。

土佐國と他國を結んでいた中世の街道は総じて「土佐街道」の名称で、いくつかルートがある中で、笹ヶ峰を越えて土佐國へ入り高知城下へ達する道は「土佐北街道」と呼び区別していました。
※土佐北街道の高知愛媛県境である笹ヶ峰に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【高知愛媛県境】現代道路と旧街道が交差する土佐北街道最大の難所「笹ヶ峰」
土佐街道と遍路道が交わる場所

土佐北街道と四国八十八ヶ所遍路道が交わる地点になぜ中務茂兵衛は標石を残したのか、その理由が少しわかった気がして、それを確かめるために今回再訪しました。
この場所は、以前訪れた中務茂兵衛の標石が残る地点です。遍路道上では65番札所三角寺から66番札所雲辺寺への道中にあたり、前回の記事では茂兵衛が遺した標石に焦点を当てて紹介しました。
先日、土佐北街道の要所を辿る中で、この場所の重要性が改めて浮かび上がってきました。ここは土佐北街道と四国八十八ヶ所霊場の遍路道が交わる要所です。それまで「点」として捉えていた街道上の地点が、一つの「線」として繋がった感覚を得ました。その繋がりを確かめたく、今回再訪しました。
※この地点にある中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【65番札所三角寺→66番札所雲辺寺】土佐街道を越えて来た旅人のための中務茂兵衛標石
土佐國から続く道

かつて参勤交代等で藩主や藩士も通った歴史ある道が、土佐國からこの場所まで続いています。
地図で見ると、この地点は四国の南北幅が最も狭まった場所のように見えます。正確な距離では最狭とはいえないかもしれませんが、太平洋側と瀬戸内海側を結ぶ現実的なルートとして、事実上の最短道として機能していたと考えられます。
ここより西の山なみには、石鎚山(1,982m)など標高の高い山地が連なります。土佐北街道は十分険しい坂道ですが、西の山地に比べれば通行しやすく、街道としての重要性は高かったようで、沿道には立川番所のような拠点が整備されました。三方を海に囲まれ、背後を山脈に守られる土佐國にとって、このルートは経済や交通、参勤交代において非常に重要な道でした。
以前標石の調査で訪れた際には、坂そのものにはあまり意識が向いていませんでした。しかし、旧立川番所を訪れたことで、この坂道が街道の一部としてどこから来てどこへ続くのか、自然に想像できるようになりました。
※土佐北街道の高知県側の要衝・旧立川番所に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【旧立川番所】土佐北街道の要衝の歴史を伝える「旧立川番所書院」と営業日限定の「立川そば」
土佐北街道沿いに残る旅籠の跡

この場所にかつて休憩所や旅籠が存在したことが記され、参勤交代の藩主のエピソードが残されています。
街道沿いには旅籠が欠かせません。特に急な登り坂の手前に旅籠を構えるのは世界共通の定番で、坂下で一息つき、荷物や馬を整えて次の峠へと向かうのが常でした。参勤交代の藩主や藩士たちも、この旅籠で休息を取りながら道を進んでいったと考えられます。こうした場所に目を向けると、街道が単なる通過点ではなく、生活と歴史が積み重なった場であることを実感できます。
ここに立つと、石碑に刻まれた「お小屋倉跡」の文字が目に入ります。石碑には「土佐の国主が参勤交代の際、休息場がここより約1,400m登った場所に設けられ、臨時の休息所として組立式の材料が運び上げられた」と記されています。
側面には旅籠屋「島屋跡」の案内もあり、記録によれば約5a(およそ150坪)の土地に広壮な建物が建っていたそうです。街道は建物の東側を通り、谷を下って西に曲がり、石垣の下を通っていたと伝わっています。その石垣は、土佐の石工が宿賃の代わりに積んだものだそうです。なお、島屋に土佐藩主が宿泊することはなく、藩主はここを下ったところにある川之江城下の本陣に滞在していたようです。この場所が四国八十八ヶ所霊場巡礼の遍路道と土佐北街道が交差する地点であったことから、お遍路さんの休息所としても利用されていた可能性がありそうです。
お遍路さんも歩いたかもしれない土佐北街道

四国八十八ヶ所霊場巡礼の遍路道(東西)と土佐北街道(南北)が交差する地点には中務茂兵衛の標石も置かれ、お遍路さんたちの道しるべとなっていました。
史実からすれば、写真左手の林のあたりに島屋の基礎となる石垣があったと考えられますが、今回はその詳細な痕跡までは確認できませんでした。
この地点は、東西に延びる四国八十八ヶ所霊場巡礼の遍路道と南北の土佐北街道が交わる場所です。考えられるのが、奥之院(別格13番札所仙龍寺)への参拝を経たお遍路さんたちも、ここを通行していた可能性があることです。
65番札所三角寺から奥之院を参拝し、次に66番札所雲辺寺や別格15番札所箸蔵寺を目指す場合、元来た道を三角寺方面へ戻るよりも、別ルートで土佐北街道に合流して、この地点に下りる方が距離的に近道だからです。
中務茂兵衛は標石を用いて奥之院参拝を強く推奨していたことから、戦前のお遍路さんの中でも奥之院経由の巡礼者は少なくなかったと考えられます。そうなると、お遍路さんもこの地点で土佐北街道と交差するだけでなく、街道の一部を通行していた可能性が高いように思います。
そして、この地点から下ったふもとの集落には、茂兵衛さんが設置した別の標石が現存しています。街道と遍路道の交点としての意味を知った上で訪れると、標石の位置が一層理に適ったものとして感じられます。
※ふもとの集落の中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【65番札所三角寺→66番札所雲辺寺】土佐國まで続く旧土佐街道沿いの中務茂兵衛標石
【「土佐北街道と遍路道の合流地点」 地図】










