21番札所太龍寺の境内からさらに山を登ったところにある「舎心ヶ嶽」は、空海が四国で最初に修行した場所とされています。都でエリートとして勉学に励んでいた空海が、四国で厳しい修行することになった足跡やその様子をご紹介します。
若き日の空海の発心
讃岐(現在の香川県)の佐伯氏に生まれた弘法大師空海の若い頃の名前は佐伯真魚(さえきのまお)といいました。空海と名乗り始めたのは土佐(現在の高知県)の室戸岬の御厨人窟(みくろど)という洞窟で修行した際に、空と海しか見えない場所で悟りを開いたからといわれています。
都の大学で高級官僚になるべく学んでいた空海が、19歳でその環境を飛び出して密教修行をはじめました。学問にもの足らず、仏門に入ることを決意したのです。当時、奈良の大安寺などに出入りしていた記録が残っていますので、お寺で法華経や部分的な大日経を目にするうちに決心したようです。現在でいえば、東大や京大を中退して山に籠るようなものです。
空海は苦行の地のスタートに故郷四国を選びました。四国へ行くにはまず淡路島へ渡ります。淡路島南部の現在の福良港あたりから、潮の速いを海峡を突っ切り、現在の徳島県鳴門市の撫養(むや)港あたりにたどり着いたことでしょう。
しかし、当時の空海にとって阿波の国はほとんど初めてで、どこに何があるのかは知りません。地元の人らに「阿波の国に霊場のような山はないものか」と聞き込んだ挙句、最初の修行の地に「舎心ヶ嶽(しゃしんがたけ)を選んだようです。
空海の四国での最初の修行の地「舎心ヶ嶽」
舎心ヶ嶽(しゃしんがたけ)は、21番札所太龍寺の境内からさらに山道を500mほど登ったところにあります。
弘法大師空海による著書「三教指帰(さんごうしいき)」によると、この舎心ヶ嶽のあたりで、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)の修行をしたといいます。三教指帰では地域の名称は「阿国大瀧嶽」と記載されています。
虚空蔵求聞持法とは、簡単に説明すると、虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えることにより、記憶力を増大させる修行です。
舎心ヶ嶽の標高はおよそ600mほどで、山としてはさほど高いわけではなく、山麓には人家もあり、空海が入山した奈良時代の終わりから平安時代のころも人里から離れていたわけではありませんが、山中に入れば深い草木で崖も洞窟もあるため、山にわけ入るのは容易ではなかったでしょうし、過酷な環境での修行であったことが想像されます。
舎心ヶ嶽にどのくらいの期間いたのかは定かではありませんが、空海が密教修行に踏み出した記念すべき霊場となりました。
空海はずっと後年の高野山へ入ってからも「私は若いころ阿波(現在の徳島県)の大滝嶽で修行した」と言い続けていました。
【「舎心ヶ嶽」 地図】
室戸岬への過酷な道程も修行
四国での空海の修行の地として、前述の舎心ヶ嶽や御厨人窟が知られていますが、それらは修行場所としての「点」で、それらを結んだ「線」でルートを考えると、その道程こそが修行のうちの大きな割合を占めていたのかもしれません。そのように考えられるほど、当時の四国内の移動は道が整備されていませんでした。
現在の徳島県南部から高知県の室戸岬へのルートは、海岸沿いに道路と鉄道が開かれていますが、空海の時代には何もありません。当時は海岸に岩礁や断崖絶壁が続き、とても人間が通れるような状態ではなく、山の尾根と谷は東西に走っているため、尾根や谷を伝って進行することもできません。
空海は阿波の南に土佐があり、そこには「最御崎(ほつみさき)」という尖った先端の地の果てがあると聞いて行く決心をしたのでしょう。地の果てで虚空蔵求聞持法を修法すれば、虚空蔵菩薩の法力を感得できるはずだと確信したかもしれません。そうでないと、たどり着けるかもわからない前人未到の場所へ向かう意味がわかりません。
空海は、現在の徳島市の南部か阿南市から南へ向かったのでしょう。阿南市の南部までは平地があり、当時も普通に歩けそうです。阿南市は東の海に半島のように突き出た2本の岬がハサミのような形になっています。その間が波の穏やかな椿泊(つばきどまり)で、古くから漁村として人が住んでいますので、椿村で休息をとったのかもしれません。
その先はほぼ山中の行程、わずかに由岐の浦と日和佐の浦に人里が点在するくらいで、あとは室戸岬まで牟岐と甲浦に入り江があった程度で、たいへん困難な道のりを強い決意で室戸岬へと歩んだものと思われます。
若き日の空海の修行の地、様子をご紹介しました。四国での空海の厳しい修行の日々が、その後の唐に渡っての密教伝授や、日本での真言密教の発展につながり、現代まで約1200年続く四国遍路の文化の礎にもなりました。
現代の四国遍路は修行的な要素は少なくなる傾向にありますが、空海の修行の日々を想像しながら、その足跡もたどってみると、新しい発見があると思います。