高知県と愛媛県をわける「篠山」の頂上に、二つの國の名前が記された石碑が存在します。当地域は有史以来境界争いが頻発していたようですが、最大の争いとなった出来事を石の記載内容とともにご紹介します。
篠山山頂にある「土豫國境石」
愛媛/高知県境に位置する「篠山(ささやま)」の頂上には、弘法大師空海ゆかりの「篠山神社(ささやまじんじゃ)」があります。
※篠山山頂への登山道の様子と篠山神社に関しては、以下リンクの記事で詳しくご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
篠山神社本殿のすぐ後ろ側、徒歩1分もかからない場所が篠山の山頂で、この場所にたいへん興味深い「國境石」がありますので、もし篠山へ登られた際にはぜひご覧いただきたく、本記事で詳細にご紹介します。
篠山山頂から眺める高知/愛媛県境「松尾峠」
國境石が立っている位置が篠山山頂(1,065m)であり、二等三角点がこの場所に設置されています。
上の写真で唯一見える平地は旧一本松町(現愛南町)の中心地で、順打ちで高知県側から遍路道を進んできて、愛媛県に入って最初に訪れる街です。
歩きお遍路さんの高知/愛媛県境越えのメインルートの松尾峠が、この天気であれば見えているはずですが、この時はそのことが頭の中に無かったので、撮影面で特に気にしていませんでした。一本松市街地の後ろの山なみのどこかに松尾峠がありますが、峠なので一番低いところがそれなのかなと思いました。
一般的に峠と山頂はどちらも山の高い位置にあるものですが、山頂へ向かう場合はその周辺で最も高い場所を目指し究めるのが目的なのに対して、峠は通過して山の反対側へ向かうことが主旨ですので、その山なみで最も通り易い場所が峠に成り得ると思います。すなわち周囲で最も低い場所、世の中の峠全てがそうではないと思いますが、ふもとから峠を探して眺める際の参考にしてみてください。
※松尾峠の様子とそこにある國境石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
四国唯一のアケボノツツジの生育地
篠山の山頂には
・アケボノツツジ
・四国八十八ヶ所の番外霊場
・県境史
ほか、篠山の特徴を紹介する看板が設置されていました。
様々な特色がある篠山ですが、現代での一番人気はアケボノツツジだと思われます。
山頂にある矢筈の池には、どんな日照りでも枯れたことが無いとか、潮の干満に応じて池の水位が上下するというとか、といった伝承があり、そこはやはり霊山たるエピソードが存在しているように思います。そのような不変のものであるからか、後述の県境画定及び國境石建立の際はこちらの矢筈の池が県境の目印になり、当初は池の中央に石が立てられたと紹介されています。
國境石南面に表記されている内容
<南面>
南 伊豫國 境
※伊予國→現・愛媛県
國境石のイメージ映像で決まって紹介されるのがこの部分です。ゆえに自ずと目につくようになっています。
私の篠山登山最大の目的はこちらの國境石を観察することで、この南面以外に記されていることが知りたくてここまでやってきました。予感的中で予想以上の収穫がありました。
國境石北面に表記されている内容
<北面>
北 土佐國 境
※土佐國→現・高知県
ここでの南北境界は篠山神社と篠山山頂付近のことになります。愛媛県と高知県の位置関係を考えた時、一般的な認識として北にあるのが愛媛県で、南にあるのが高知県の認識で間違いありません。南北逆なのは特殊な事例です。
國境石西面に表記されている内容
<西面>
紀元 二千五百三十三年 明治六年第十月
明治6年は西暦1873年、同年同月に日朝関係をめぐって明治六年政変が起きています。いわゆる征韓論で、それによって新政府の要職を務めていた西郷隆盛・江藤新平・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣ら参議や、その側近の人物たち約600名が辞職するという、王政復古では一致していた志士たちが袂をわかちあうことになる大きな転換期になりました。
「紀元二千五百三十三年」は神武天皇即位紀元、一般的には皇紀の名称で知られている暦のことです。第1代神武天皇が即位した年を元年(皇紀元年)としてカウントする日本独自の紀元です。皇紀元年は西暦では紀元前660年に相当します。慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令に伴い、使用が奨励されました。
とはいえ、それまでもそれからも日本で年号を表すのに広く用いられているものは元号です。それは西暦が浸透した現代をもってしても、公文書などでは「令和●年」と元号が用いられる点にみることができます。
皇紀は昭和時代初期から戦前にかけて、努めて用いられた時期があります。
※皇紀に関しては、以下リンクの記事でも詳しく取り上げていますので、こちらもぜひご覧ください。
國境石東面に表記されている内容
<東面>
高知縣權令 岩崎長武
愛媛縣權参事 大久保親彦
立合建之
<東面上部>
高知縣權令
愛媛縣權参事
この時代は現在の知事に相当する役職や、本来そうでなくても事実上知事職に就いていたケースがあり、なかなか複雑です。
藩知事…
版籍奉還(明治2年/1869)によって土地(版)と住民(籍)を返上し、藩主は藩知事に改められた。
参事、権参事…
本来は藩知事を扶ける役職で、薩長土肥出身者を主体に政府から派遣された。江戸時代で言えば家老に相当する治政面における最高責任者。
県令、権令…
廃藩置県(明治4年/1871)によって藩知事は退陣し、代わって政府から派遣された官選知事のこと。
権がつくと位が一つ下がるイメージですが、その位とは政府内のものであったり、実際の意味として参事の片腕であったりして非常にややこしく、私の認識が合っているか自信がありません。
<東面中部>
(高知縣權令)岩崎長武
(愛媛縣權参事)大久保親彦
高知県の代表者である岩崎長武(いわさきながたけ)は「權令」なので名実ともに県の代表者です。官選民選を含む高知県の歴代知事としても、第二代知事を務めた人物として記録されています。權(権)が付くのは、派遣元である政府内での官等でしょうか。
愛媛県の代表者である大久保親彦(おおくぼちかひこ)は「權参事」で、「事」ではなく「吏」にも見えます。役職名は廃藩置県以前のものであり、同氏は愛媛県の歴代知事としては名前を連ねておりません。
また同時期に参事を務めた人物は江木康直(えぎやすなお)であり、同氏が愛媛県で初めての知事相当職を務めた人物との見方があります。制度に則ると、旧藩主である藩知事が居て、参事の江木氏が居て、権参事の大久保氏が居ることになりますが、國境石の建立は廃藩置県より後なので、愛媛県では役職名にはまだ旧称を用いていたのかもしれません。
<東面下部>
(岩崎)長武
(大久保)親彦
立合建之
愛媛県初代知事である江木氏は晩年病に倒れ、結果的に2年足らずで次代へ交代しています。なので体調面から篠山登山ができなかったのかもしれません。そのような事情があり、この時代に実際の愛媛県政を掌握していたのは大久保氏なのかもしれませんね。
海の土予國境争い
陸の國境である篠山は國境石の立合建立をもって明治6年(1873)10月に決着しましたが、両県は島嶼部にも県境未確定地を有していました。宿毛湾に浮かぶ鵜来島(うぐるしま)と沖ノ島(おきのしま)です。現在は全て高知県の管轄になっていますが、明治時代以前は鵜来島と沖ノ島の北半分は宇和島藩の管轄でした。
世界地図を眺めていると一つの島の中に複数国家が存在するケースがあります。沖ノ島は国家が異なるとまではいきませんが、異なる二藩(現在の県に相当)が統治していました。その名残は島内の家屋の様式などに現代でも見ることができます。
篠山問題…明治6年(1873)10月
沖ノ島問題…明治9年(1876)2月
両県境未確定地域について、文献等では山は愛媛へ海は高知へ、と交換条件のような形式で県境が確定した記述がみられますが、年代で見ると結構開きがあることがわかります。結果的に係争地で愛媛県が得たものは篠山神社だけで、どちらかといえば高知県有利な裁定のように感じられます。
そこは元より土佐が薩長土肥の雄藩の一つであったこと、江木氏の次に愛媛県令を務めた岩村高俊(いわむらたかとし)が高知県出身だったことも作用しているのかもしれません。
篠山の國境石の様子と山頂付近の動画も制作していますので、ぜひこちらもご覧ください。
【「篠山山頂」 地図】