土佐國修行の道場 / 伊豫國菩提の道場を分ける予土国境(よどくにざかい)の名前を松尾峠(まつおとうげ)と言います。旧来の街道・遍路道の雰囲気が残されていて、頂上にはそれぞれの領地を示す境界石が今も残ります。
予土国境「松尾峠」
39番札所延光寺を出て 宿毛の市街地を抜けて、いくつかの小さな集落、松尾坂口番所跡を通ると 峠道が始まる。
土佐側は狭く急な坂道が続き、ところどころに往時のままの石畳が残っていたり、軍港としての顔もあった宿毛らしいエピソードが伝わっています。
その坂を登り切ったところが、予土国境・松尾峠。
戦前 宿毛は海軍に重要視された軍港でもある。
戦艦大和の標柱間公試運転の場となり得たのは、宿毛湾の水深が深く入り組んでいる良港であること、三方が山に囲まれ防衛上の利点が多かったことが挙げられる。
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逆に言えば、陸上交通は大変な不便をきたしており お遍路さんはじめ多くの旅人がお隣・伊予国へ行くにはこの松尾峠しかなかった。往時は日に200~300人とも言われる往来人数があり、峠には茶店が数軒存在し、大変な賑わいであったという。
それも1929年(昭和4年)に宿毛トンネル及び国道が開通、以来この峠を通る者はいなくなった。
近年は自治体や地元有志の方々により保全整備が行われ、歩くことができるようになっている。
土佐國・伊豫國それぞれの境界石
こちら土佐國が建立したもの。
向かって右側に位置する。
史実によると1688年(貞享5年?元禄1年?)に立てたとされ、前年に伊豫側が境界柱を立てたことを知らされ、土佐側は慌てて準備。
高知城下で刻字され 船に乗せて下田港(四万十川河口)に運ばれ、そこから人力で運ばれたという。
こちら伊豫國が建立したもの。
前述の話を基準とすると、1687年(貞享4年)に伊豫側が先に境界柱を立てたため土佐が続いたとされるが、刻字されている「藩」の文字。
混同されることが多いが、藩と呼ばれていたのは明治維新後に行われた版籍奉還(1869年/明治2年)から廃藩置県(1871年/明治4年)までの2年余り。
それでいくと伊豫側が最初に標柱を建てた1687年は江戸時代にあたるので、話が合わない。
とするとどういうことか。
伊豫側には先代の境界標柱があったのだろう。
落雷など火災によって消失したか、新しいものに建て替えられたか。
察するに藩の呼称が用いられていた僅かな期間に、この石柱が建てられたのではないだろうか。
折しもその時期は土佐・伊予間で境界争いが行われていた時期。
伊豫側の刻字には「宇和島藩支配地」とあり、領界の主張がより高圧であるように感じられる。
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あくまで私的な推測であるが、いずれにしてもこれらが古い物であることは確かである。
歩いて国境を越える歩き遍路旅
四国八十八ヶ所を回っていると、阿波→土佐→伊予→(阿波)→讃岐と国境を何度か越えて行くが、この予土国境・松尾峠以外は トンネルであったり、特に知らせるものがなかったり、風情に欠ける。
普段生活をする中で歩いて県境を越えることはなかなか無く、特に四国遍路と言う特別な時間を過ごす中で、歩いて県境を越える場面にはひときわ感動がある。
それをより盛り上げてくれるのが このように古来から残っている物証。
1200年以上の伝統を誇る四国遍路。
せっかく歩くのであれば、地域の事、昔の事、往時の人々の姿を思い浮かべながら進まれると、より味わいの深く意義のある遍路旅になるように思います。
【松尾峠(高知県愛媛県県境) 地図】