四国八十八ヶ所霊場を巡っていると、何度か県境を通過することがあります。愛媛県から徳島県への県境越えの境目峠には境界石がのこされていて、車道が開削された当時の歴史浪漫を感じる雰囲気が保たれています。

愛媛県から徳島県への県境越えの旧道には「これより徳島県」と記されている大きな境界石がのこされていて、状態は良く全四面共に文字の読み取りが可能です。
境界石が立っている場所

歩き遍路でこの場所へ来るには、別格14番札所椿堂常福寺から国道192号を歩いて来て、七田バス停付近を分岐する必要があります。
別格14番札所椿堂常福寺から国道192号を66番札所雲辺寺や別格15番札所箸蔵寺方面に進んでいくと境目トンネルを通行することになります。所要時間と労力でいえば、国道を進んでトンネルを通行するほうが早くて楽です。しかしながら、少しの坂を登る旧道に入り、この境界石がある場所を訪れて、峠の愛媛徳島県境を越える雰囲気は、唯一無二のものです。
※国道192号から旧道への分岐点である七田バス停付近にたっている標石を以下リンクの記事で紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【65番札所三角寺→66番札所雲辺寺】愛媛県と徳島県の県境「境目峠」近くに立つ標石

旧道の峠付近は1車線、その前後も1車線から1.5車線程度と、昨今の交通事情を考えると広い道ではありませんが、国道標識があるということは、かつてこの道が国道指定を受けていた証です。
明治35年(1902) 車道への改修・竣工
大正6年(1917) 境界石建立
大正9年(1920) 徳島県道池田川之江線
昭和40年(1965) 一般国道192号指定
昭和47年(1972) 境目トンネル開通
境目峠は阿波(あわ、現在の徳島県)と伊予(いよ、現在の愛媛県)を結んでいた伊予街道(阿波街道)の一部にあたります。明治時代後期に自動車が通行できる道幅に改修され、昭和40年(1965)に国道指定を受けました。それから7年経った昭和47年(1972)9月に境目トンネルが開通しているので、国道として機能していたのは7年間です。写真の国道標識はその期間中に設置されたものと考えることができます。
境界石の正面に表記されている内容

「従是東徳島縣三好郡」は「これよりひがしとくしまけんみよしぐん」と読みます。
<正面>
従是東徳島縣三好郡
徳島縣三好郡→現・徳島県三好市、東みよし町
三好、三次、三芳
いずれも「みよし」と読みますが、主に西日本で見ることができる地名です。徳島県で三好といえば聞き馴染みが薄いかもしれませんが、「阿波池田」と聞くとご存知の人が多いのではないでしょうか。1970年代から1980年代にかけて高校野球ファンを沸かせた徳島県立池田高校のある街が、旧三好郡池田町です。
しかしながら、四国八十八ヶ所霊場巡礼において、札所番号順に巡る順打ちで徳島県→高知県→愛媛県と来ると、次は香川県なのでは?なぜ徳島??と疑問を持たれる人が大勢いらっしゃると思います。これは車両遍路と歩き遍路で順路が異なるのですが、歩き遍路で66番札所雲辺寺を目指す際はこちらの境目峠で一度徳島県に入り、ほどなくして雲辺寺山へ登る遍路道を経由して雲辺寺に到着します。雲辺寺の住所は徳島県三好市ですが、便宜上香川県の札所の一つに数えられています。
境界石の右面に表記されている内容

右面には徳島県三好郡と接する愛媛県川之江町の情報が記載されています。
<右面>
至
愛媛縣川之江甼四里十丁
愛媛縣川之江甼→愛媛県四国中央市
川之江は、かつては伊予・土佐・阿波・讃岐の四街道が交差する交通の要衝でした。それがゆえの現在の四国中央市という市名にもつながっています。
県境は旧・川之江市の市域ですが、その市街地は歩き遍路では通行しないのでお遍路さんはあまり馴染みが無いかもしれません。製紙業が盛んな町です。
四里十丁は約16.8kmを意味していて、川之江の中のどこの場所までの距離かにもよりますが、距離が長く見積もられている気がします。現在のJR川之江駅がある市街地までは約15kmくらいの距離です。現在の公的な標識における距離表示は、市町村の役所・役場があるところまでの距離で統一されています。
※旧・川之江市内で土佐街道を遍路道が合流する地点にのこされている中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【65番札所三角寺→66番札所雲辺寺】土佐街道を越えて来た旅人のための中務茂兵衛標石
境界石の左面に表記されている内容

この場所で愛媛県から徳島県に入るので、県庁所在地や近隣の役所までの距離が知らされているのだと思います。
<右面>
距
徳島縣廰貮拾参里五丁
三好郡役所参里参拾五丁
徳島縣廰貮拾参里五丁→徳島県庁約90km
三好郡役所参里参拾五丁→三好郡役所約15.5km
縣も廰も旧字体になりますが、縣は県、廰は庁に相当します。廰と聴はどちらも聴くことに由来しますが、両者が同じ漢字ではないところがポイントです。「聴」は人の話に耳を傾けることを意味し、そこに建物を意味する部首「まだれ」をつけると、建物の下で人々の話を聞く場所、すなわち県政を行う県庁(縣廰)ということになります。
村長、町長、市長、知事
村役場、町役場、市役所、県庁(都道府庁)
なぜ呼び名が変わるのか、日本語の難しいところですね。それぞれ管理する範囲や規模の違いに伴って呼称が変わるものと私は理解しています。
境界石の裏面に表記されている内容

建立年月と施主が記されている面をみると、当境界石が立つ徳島県三好郡によって建てられたもので、徳島県関係の情報が厚いのに合点がいきました。
<裏面>
大正六年六月建之三好郡役所
大正6年は西暦1917年。世界では1914年7月から始まった第一次世界大戦が続いていた時期です。
徳島県側から見た境界石

徳島県側に立ち愛媛県側を眺めると、道路の舗装にそれぞれ管轄の違いをうかがい知ることができます。
徳島県は境界石、愛媛県は白看板、それぞれの県を主張する物が設置されています。愛媛県側の白看板は通称で、昭和25年(1950)3月に制定された古いものです。
・昭和25年(1950)3月~昭和46年(1971)11月
白地に青文字、ローマ字あり
・昭和46年(1971)11月~昭和61年(1986)10月
青地に白文字、ローマ字なし
・昭和61年(1986)10月~
青地に白文字、ローマ字あり
日本における地名標識は一枚物など例外を除くと、このような規格に基づいて設置されてきました。なのでこちらの看板は最も古いタイプの白看板となり、一番新しかったとしても50数年経過していることになります。
【境目トンネル】
〇所要時間が早い、峠越えの坂が無いので楽
▲通行車両が多いため落ち着かない、徳島県側が歩道が無く危険
【境目峠】
〇通行車両がほとんど無い、県境越えの雰囲気を堪能することができる
▲数分登る未舗装の坂がある、トンネルと比べて時間を要する
それぞれ一長一短ありますので、状況に応じて経路を選択されると良いと思います。
【「愛媛徳島県境境目峠」 地図】