現存十二天守の一城である丸亀城を有する香川県丸亀市の旧城下町を横断しているかつての丸亀街道沿いに、遍路道を示す標石がのこされています。願主・発起人・石工の名前をはっきりと読み取ることができます。

旧丸亀街道沿いに残されている標石。現在はご覧の通りの住宅街ですが、この道は旧丸亀街道で、かつては行き交う人々にとって重要な道であったこと標石が物語っています。
標石の正面に表記されている内容

こちらの写真は南向きなので、すなわち標石の北面が正面になり、この位置から丸亀城はビルやマンションに遮られて見ることができませんが、丸亀城は右奥(=南南西)の近い場所にあります。
<正面>
袖付き指差し
左
扁んろ道
通常このような立地であれば、通行者は北から来てこの標石を目にして「ああ、左だな」と交差点を曲がるのでしょうが、こちらの交差点をお遍路さんが通行するときは、西から東(写真では右から左方向)への向きが一般的です。
なので曲がり角地点に設置された気がしてきません。どちらかといえば国道標識のような、路傍で「ここが遍路道ですよ」という情報を確認のために掲示している存在のように感じます。
中務茂兵衛標石は交差点、とりわけ三叉路や五差路に設置されるケースが多いので、標石建立のコンセプトは施主それぞれということなのでしょうね。
標石の右面に表記されている内容

当標石は中務茂兵衛標石ではないのですが、肩書の「願主」が登場します。
<右面>
願主
髙貴鉄治郎
茂兵衛さんの石であれば願主(=呼びかける人)は茂兵衛さんで、施主(=費用を捻出する人)が別にいるスタイルですが、こちらは別面に「発起(人)」の氏名が刻まれているので、願主=施主のような意味合いでしょうか。
標石の左面に表記されている内容

発起人は二名の氏名が刻まれていて、こちらの方々がプロジェクトの呼び掛け人という位置づけだと想定します。
<左面>
発起
小島勇治郎
綾美勘平
全体的に字がしっかりしていて見易い標石です。
標石の裏面に表記されている内容

標石の製作を行った者が「石工(いしく)」として名が刻まれています。
<裏面>
明治十九年五月
石工
岡田平右●門
明治19年は西暦1886年。同月1日に第一回条約改正会議が開かれています。その条約とは、安政年間に五カ国と締結された列強国との通商条約です。
条項の中にいくつか不平等な点がありましたが、主には
①治外法権を認める
②関税自主権が無い
③片務的最恵国待遇
①について、当時の日本情勢は不安定で攘夷の動きがあったことから、外国人が日本で活動することは危険が伴いました。そこで諸外国はそのことと日本の法整備の未発達を例に出し、これを認めさせました。
治外法権とは外国人が他国で犯罪を犯した際、その当時国の法律で罪を裁くことを認めることです。例えば、アメリカ人が日本で罪を犯した場合はアメリカ人領事がアメリカの法律で罪を裁くことになります。日本の法律で裁くことができません。この権利を認めてしまうと、罪を犯した外国人にとって有利な判決になるケースが多くなります。
その懸念が的中したのが同年10月24日に発生したノルマントン号事件です。紀伊半島沖でイギリス船籍のノルマントン号が遭難した際、外国人の船長及び船員の多くは救出されましたが、日本人乗組員は全員死亡しました。その裁判において、船長は救助を呼び掛けたが言葉が通じないため呼び掛けに応えなかった、と申し出たことにより船長は無罪になりました。国内世論が紛糾すると共に、条約の不平等を痛感した出来事でした。
②について、外国製品が安価な価格であれば、後者が売れるのが自然の成り行きです。その流れを抑制するために舶来品に課税されるのが関税です。外国製品ばかりが売れると、国内産業が打撃を受けます。開国当時の日本は200年以上鎖国していて、諸外国と比べると文化的に数百年の遅れを取っていたので、優れた外国製品が入ってくるとそれらが売れることは明らかでした。
当条約により日本は関税を設定する権利を奪われてしまったため、国産品と輸入品の不均衡が起こり国内経済が大混乱します。その不満は外国人や外国人商人に協力する日本人にも向けられ、攘夷の動きとして朝廷の勅許無しに条約を締結した大老・井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺された桜田門外の変が起きるなど、不穏な世の中になってしまいました。
③の最恵国待遇とは、当事者国以外と条約等を締結した場合、同等の権利を認めるというものです。例えば最初に日本がアメリカと条約を結んで、その後日本とフランスと結んだ条約にアメリカとの間に無かった有利な条項があった場合、アメリカにも自動的にその条項が追加されるという取り決めです。
「片務的」となると「相手国にだけ」という意味になります。(相手国側に)片務的最恵国待遇の場合、例えばアメリカと日本が条約を結んで、後年アメリカとイギリスが別の条約を結んだとします。そこに米日との条約には無い有利な条項があったとしても、それは日本にとって関係がありません。両者がその権利を持っているならば「双務的最恵国待遇」となります。
そのような安政の五カ国条約でしたが、当標石が建立されたのと同年の会議では条約改正に成功せず、結果的に1858年の条約締結から治外法権の撤廃が1894年、関税自主権を回復したのが1911年、完全な形で条約改正が達成され、列強国と対等の立場になるまでに50年以上の年数を要しました。
丸亀市内の大きな道といえば市街地にある「香川県道33号高松善通寺線」や、郊外にある「国道11号」です。標石が建てられた明治時代はそのどちらも存在せず、それらの近代道路はいずれも旧街道とは異なる位置に敷設されたことがわかりました。
なお、讃岐五街道と呼ばれる高松城下から分岐していた街道の一つ、丸亀街道を西へ向かった先がこの地点です。道路改修等で当時の街道を忠実にたどることは難しそうですね。
※高松城下の様子は、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【高松城外堀】常磐橋のふるさとからみる明治以降の高松市街地の変遷
かつての道路の役割は都市を行き来する街道であり、そこで暮らす民衆にとっては生活道路であり、お遍路さんにとっては札所間を往来する遍路道と、行き交う人々は様々でした。現代では用途に応じて通行する道路が異なりますが、明治時代頃までは用事の如何を問わず、同じ道を譲り合いながら使用していたことが想像できます。
※この標石から78番札所郷照寺方向に少し進んだ先にある中務茂兵衛標石に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【77番札所道隆寺→78番札所郷照寺】地面から少しだけ顔を出している丸亀城下の中務茂兵衛標石
標石メモ
発見し易さ ★★☆☆☆
文字の判別 ★★★★★
状態 ★★★★☆
総評:現代の地図では遍路道として紹介されていない場所にあるので、存在を知らなければ通ることは稀なように思います。字がしっかりしていて内容の判別が容易です。
※個人的な感想で標石の優劣を表すものではありません
【「旧丸亀街道標石」 地図】